見出し画像

読書会より~ブルシット・ジョブについて考える~

本日は読書会。テーマは「ブルシット・ジョブ」だ。

流れは以下のリンクに記載されているので、私は読書会での雑感をまとめておこう。書けば書くほど様々なジレンマにぶち当たるが、それも含めて。


①テーマの持つ「広がり」


キーワードはたった1つだけであるものの、学問ベースで見ても、ざっと経済学・経営学・社会学・人類学からのアプローチが考えられる。学問以外で見ても、生き方そのものや社会とのつながり方、様々な視点から物事を考えられるし、近年少し話題になった"FIRE"もブルシット・ジョブと紐づけて考える事ができるだろう。もっとも、それがいいかどうかは別問題として。

様々な分野に話題が広がるので、誰しもが納得できる落としどころを見つけるのは困難、というよりは無理な話だ。視点も違えば、置かれている状況も異なる。ましてや時がたてば考え方が変わる部分も出てくるだろう。個々人で最適解を見い出すしかない問題だ。

もし、最終的に個々人で判断すべきテーマとするならば、それが発散的な思考を促すのは好都合だ。ある方向性に突き進む場合は、収束的な思考の方が良いが、それも多様な情報を得、それを自らの考え方に基づいて整理し、収斂させてゆく。となれば、このテーマは発散を促すいいきっかけになるテーマなので、好都合なのだ。

だが、今回の読書会ではいい意味での発散というよりも、散り散りになってしまった感もある。結論を出す必要はなくても、無意味に広がってしまった話題は何からどう考えればよいかわからなくなる。どうもこの手の議論、塩梅が難しい。

②現実に人の役に立つ業務が低い価値を見積もられる


直観的な感覚に過ぎないが、経済学・経営学の議論をベースとすると、こうならざるを得ないのではないだろうか。入手困難な物事にはプレミアがつき高額になる反面、簡単に代替できるものは低額になるという、希少性に関する議論だ。例外的なものもあるが、ブルシット・ジョブで取り上げられている「本当に役に立つ仕事」は、人がやりたいかどうかは別として、誰かがやらなけれいけないものばかりなのだ。そして、多くの人がやりたくない(だろう)にもかかわらず、3K労働の条件が整っているなんてこともある。ん?いったん止まろう。もし、やりたい人が少ないなら、どうしてそのような業務の賃金は安いのか?

清掃を例にするならば、ビルの廊下やトイレが汚ければ入りたくないだろう。だが、その価格を私たちはどのような形で支払っているのだろうか?貨幣経済ベースで言うならば、ここで人を雇うならば、そのサービス料は適切に料金に反映されなければならない。私たちの生活は貨幣が「主」となってしまっているにも関わらず、金銭評価できないのは、いかがなものだろうか(といっても、それで価格が上がるのも嫌だというジレンマ)。

③ブルシット・ジョブが人の役に立つ業務よりも高額の給与が払われるとしたら・・・


ブルシット・ジョブ論で問題に取り上げられることの1つが業務の実益と賃金の不均衡だ。②で取り上げた業務に比べ、ブルシット・ジョブに該当する業務は比較的高額な給与所得を得る傾向にあるらしい。反対のケースももちろんあるだろうが、正しい部分もあるだろう。

このケースについては、似たような社会環境が以下の小説に示されている。

この小説は旧ソ連を風刺した小説と言われている。動物たちによる「革命」の後、はじめは社会的役割に関わらず比較的平等な取り分が得られていた。だが、次第に政治的リーダー(豚)とその取り巻き(犬、オンドリ、羊)、一般労働者(馬、メンドリら)によって、待遇が大きく異なるようになってゆく。小説では取り巻き役は必ずしも「高給取り」として扱われていないが、少なくとも一般労働者よりは待遇が良いだろうと推測できる。

繰り返すが、この小説は旧ソ連を風刺したものだ。もし、この光景(取り巻き役をはじめとする体制維持を目的とした雇用)が現代社会の一般企業で生じているとするならば、資本主義も共産主義その他の社会秩序をもたらす思想も、見た目上のイデオロギーの違いはあれども、組織形態としては大差がないことになってしまう。どんなメカニズムが働いているのか、そもそもメカニズム以前に人類そのものの宿命なのか。

④形式的な"おままごと"


Web打ち合わせで使用する資料の印刷(当然、自分が使うものではない)、“会社”としての公式回答を出すためだけの手続きなど、冷静に考えればまったくもって不要な業務についての話題も上がった。

確かに、自社のケースだと、顧客が内容のすべてを確認するとも思えない仕様書を複数部印刷し、それを宅配便で送って納品することがある。その業務を行っている人には大変申し訳ないが、ただの無駄だ。そんなもの電子納品すればよい。私が行っている業務でも、ちょっとした誤字脱字があっただけで再印刷を求められたケースもある(その資料、打ち合わせで軽く触れるだけで核心には全く関係ないにも関わらず)。

どの部分を重要視するのか、何をもって良しとするのか、私たちはもう一度考え直さなければならないのだろう。そもそも、その場限りの打ち合わせでしか使わない資料の誤字脱字を修正しても、一人当たり生産性は上がらないのだから(それとも、上がると思っているのだろうか)。

⑤最後に

さて、色々と考えたことを書き記してきたが、全く持ってまとまりがない。少なくともこれだけは言えるだろう。何か大きな変化をもたらすには個々人の力ではあまりにも微力だ。かといって、社会を変え得る力を持つような人たちに委ねることもできないだろう。だが、自らがどのような形で生活の糧を得たいのか、それを考え、行動に移す。リスクは大きいと思うが、それを一人ひとりが行い、現状の社会構造を変えるムーブメント(というよりも、ある種の流行)が起きるようにしていくのしかないのだろう。

自分はどうするか。とりとめもない結論だが、これしかない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?