見出し画像

「優しさ・優しい」とは何か?③―哲学カフェに参加して考えたこと―

今回も哲学カフェのことを振り返ろう。「優しい行動」したはずなのになぜ、時に面倒なことにことに巻き込まれることがあるのか?そこを中心に見ていきたい。

③「優しい≒優位」?

哲学カフェの本編で様々なやり取りがなされる中で、ふと表題のような疑問が沸いた。というのも、「○○してあげる」という表現がやたらと出てきていたのだ。

「してあげる」には、どうも行為者側の心身の余裕を感じる。また、受け手は自分自身の困難さを打開するために「してもらう(していただく)」。となると、その「優しい行動」をとった局面だけを切り取って考えると、行為者と受け手には、余裕の有無という視点で見ると、有為と劣位の関係にあるように見える。

これが家族や友人、同僚のような関係性の中でとられるものであれば、そう大きく気にすることはないだろう。誰もが時に行為者となり、時に受け手となるのだから。

しかし、この世の中はそればかりではない。そして、今回のブログの当初に挙げたエピソードにも、継続的な関係性とは無縁のものが挙げられていた。再掲しよう。

  • 白状を持った方が道端で困っていた。様子を察し、目的地まで送り届けてあげた。この行動は一般的には「優しい行動」に含まれるだろうが、別段優しいことをしたつもりはない。自分としては義務感でやったに過ぎないし、やらなかったら、自分の気分が悪くなる。

互いに名前も知らない。どのような背景を持った人かもわからない。そして、このやり取りの後、人間関係が続くわけでもない。あくまでもその場限りのものだ。

同じようなものは以下のような例にも当てはまる。

  • 電車内でお年寄りに座席を譲ったとする。自分としては、困っていそうに思ったから行動した。しかし、相手は「年寄り=弱者」と捉えた。結果、そのお年寄りは「年寄扱いするな」と怒った。

その場限りにおける優しい行為は、どうしても行為者と受け手の立場の差だけが強く見えてしまう。持ちつ持たれつでないからこそ、受け手側が時に反発することがあるのかもしれない。

また、この問題は以下のような例でも考えられる。

  • 災害の被害を受けた方々へ多額の義援金を送ったことを表明した有名人に対して、SNSで「偽善だ」とたたく人がいる。

第三者も強者と弱者のような関係性が強く見えてしまうが故に、怒りの対象に見えてしまうのかもしれない。義援金となると、国や地域によっては税金との絡みも生じるだろうから、一言で整理するわけにはいかないだろう。もっとも、仮に偽善で行われた行為だとしても、それをたたく行為自体が「優しい」ものではない。

ただ、ここで少し状況を変えて考えてみよう。互いに持ちつもたれるの関係の中で、先の2例のような行為が行われていた場合だ。

どうもこの時、反発や怒りのような感情が沸きにくくなるように感じるのだ。下手すれば、その行為自体が優しいものとすらみなされず、当然の行為と受け取られるかもしれない。

ある参加者はこのようなケースの時に、以下のように区別された。

  • 長い間続く関係・・・互いに「当たり前の行為」としての優しさ

  • 一度限りの関係・・・一部の人だけがとる「特別な行為」としての優しさ

特別…。第三者的な視点で見る優しさは、まさに、これに当てはまるように見える。そして、どうしても行為者が優位な立場に立っているかのように見える。それ自体が幻想だとしても(実際、幻想でしょう)。

④最後に

これまで、哲学カフェに参加して考えたことを見てきた。毎度のことながら、別段、結論めいたことはない。ただ、この哲学カフェを通じてつくづく感じたことがある。

――定番は安心感がある――

今までの流れとは無関係な感想だ。ただ、それを実感する回であったのだ。

いつもの司会・書記に戻ると、安心感は強い。もっとも、それでは負担が偏るので、分担する方がベターであろう。たまにはくじ引きで司会や書紀を決めるなんてのも、面白いのかもしれない。

次回はまた2週間後(ブログ執筆時点では、残り2日…)。テーマは「恥ずかしい」。どういうやり取りがなされるのだろう?

ああ、自分の下手な文章が恥ずかしい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?