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「ひとつの言葉」が持つ意味・感性を大切にするということ

「ひとつの言葉をいらないと感じることは、その言葉が表現する大事なものも、おなじようにいらないと拒絶することなのです」

五木寛之『元気』の最終盤にある一節だ。真の元気を取り戻すために、様々な感覚をありのままに受けとめることが大切であるという。それを説く中で、この一節が登場する。

平安時代以降、文人墨客の間で使われてきた「暗愁」という言葉が1945年7月の永井荷風の日記に書かれて以降、姿を消した(≒絶滅した)という。漠然とした不安感や憂い、それが身体的に感じられるときに使われる言葉の1つであったそうだ。

ある言葉を捨てる場合、同じような意味合いの言葉や表現で代用する他ない。しかしそれは、元の言葉とは意味合いが異なるものになってしまう。

「朱色」を「朱色」という言葉抜きに表現しようと試みると、イメージしやすいかもしれない。「赤色」と言い切るには黄色っぽい成分が表現できない。かといって「橙色」ほどでもない。さて、どう言おうか?

同じことは人間の感情でも当然発生する。ただでさえ、感情を言葉にする過程で落ちる情報があるのにも関わらず(だから人はすれ違う)。

五木の先の一節は、その意味合いの脱落が思っている以上に私たちの感性に重大な影響を与える、ということなのだろう。

となれば、現代までにどんな言葉が生まれ、どんな言葉が死んだのだろう?死んだ言葉が持っていた意味合いにはどういうものがあったのだろう?

言葉は一種の催眠術、まさに「言霊」であるかのように、行動や感情をコントロールする。五木の一節は、1つ1つの言葉が持つ意味合いに改めて目を向ける大切さを教えてくれる。よりよい人間関係を構築するためにも、目の前の現象をより適切に理解するためにも、そして当然、人々がよりイキイキと生きられる環境を構築するためにも。

奇しくも次の読書会のテーマ本は古典『とりかえばや物語』。平安時代に生きた人々が持っていた感性はどういったものだったのか、そこに現代を生きる私たちが捨て去ってきた大切な感覚が隠れているのではないか。そういう視点からも読み、理解を深めていくと、より面白く読めるかもしれない。

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