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自分の価値を74億人にどう示すか。株式会社せーの 代表取締役社長「石川涼」

石川涼さんは20歳で上京し、わずか4年後に独立。29歳でVANQUISHを立ち上げると爆発的な人気を誇り、109に出店するブランドとして初めて東京コレクション(以下、東コレ)に参加。2010年の東コレで最多動員数を叩き出した。9割が失敗するといわれるブランド事業で、なぜ石川さんのブランドがここまで人気を博すのか。フジテレビFOD「ハミダシター」では、キングコング西野氏と、その才能についての対談も行われている。なぜ皆「石川涼」という人間に惚れるのか。石川さんの信念を探る。

人と違うことを恐れない強さ

-VALUを始めたきっかけというのは?
石川 DMMの片桐さんに勧められたから。「洋服屋さんでやってる人いないからやったほうがいいよ」って勧めてくれたの。

-人に勧められたことはまず試してみるタイプですか?
石川
 うーん、全部が全部ではないんだけど、競争力が低いっていうところがチャンスじゃん。ライバルが少ないから。

-VALUを初めて、すぐにVAを売買しましたか?
石川
 俺ね、まじでやり方がわからなくって、失敗しちゃったんだよね。めっちゃ安く売り出したりしてた。すごい儲かった人とかいるんじゃないかな。でも、やっぱりこういうのは参加することに意味があるから。わかんなかったりとか失敗しちゃったなって経験を積むことが大事なことだと思う。

-優待も積極的に出されますもんね。
石川
 そうだね。次で11弾かな。VALUも炎上した時期があったでしょう? みんなが離脱しちゃって、そういう時がチャンスなんだよね。みんながやらない時にちゃんとやる。だって、みんなと一緒になってたらさ、いつまでも“みんなと一緒”から抜け出せないよね? 全部が全部逆にする必要はないけど、そこを見極めていかないと、どんなことも勝てないと思う。多数決や常識ってやっぱり負けた人の基準じゃん。勝ってる人は一握りしかないわけだから。どこかでお前らと一緒じゃねぇよっていう想いがないと、勝てないよ。

-そうですよね。うーん、改めて自分の価値ってなんだろうって思ってきました…。
石川
 人と違うことだよ。人と違うことを恐れちゃいけないんだよ。それが個性っていう価値になる。人と違うことに拒否反応って出るじゃん日本人って。それがすごいダメだと思う。

田舎から東京へ。“知る”ことへの欲求

-石川さんは神奈川県出身の静岡県育ち。富士山の麓の街で暮らしていたんですよね。小さい頃からファッションがお好きだったんですか?
石川 
うーん、僕らの時代はそれしかなかったんですよね。自分を表現する手段が。歌うか、服か、バイクか、車か。今はインターネットがあるけどさ。

-ご自身は服で表現したいと?
石川 
そうだね。父親が若かったから、一緒に買い物とか行って自然に洋服に興味を持ったかな。

-20歳で上京され、アパレル業界で働き始める。地元で就職や進学を考えたり、地元にいるっていう選択肢もあったかなと思うのですが…?
石川 
それはなかったんだよね、自分の中で。本当に何にもないところで、都会の情報も入ってこない。知る機会もないんだけど、やっぱりちっちゃい頃からここに住んでちゃいけないって思ってたんだよね。とにかく田舎にいちゃいけないって、ずっと思ってた。全然馬鹿にしているつもりもないし、場所が変われば良いところも悪いところも変わってくると思うけど、やっぱり田舎の人たちって経験値が少ないと思う。コミュニティも範囲が狭いし、そうすると考え方も狭くなってくる。そういうのが嫌だったのかもしれない、俺はね。もっと知りたい。色々なことを経験したいって、知らないことへの欲求が多かったから上京したかな。

独立とブランド立ち上げ。20年続く会社とは?

-20歳で上京、24歳で独立。かなりのスピード感だと思うのですが? 独立したいなって考えていたんですか?
石川
 いや、あまりそういったことは考えてなくて、別に独立したいっていう野望があったわけではなかったしね。ただ、仕事をがんばってたら結果がついてきた。一人で食っていけるくらいはなんとかなるかなって。それぐらいの気持ちで始めたから、正直ここまで大きくなるとは思ってなかった。

-独立するまでで一番大変だったことっていうのは?
石川 
社長がアルコール中毒だったこと(笑)隣の席だったんだけど、酒買ってこい! 馬券買ってこい! とか。

-漫画みたいですね(笑)
石川 
そう。それでみんな辞めちゃってた。俺も辞める選択肢っていうのはあったんだけど、仕事は全部やらしてもらえてたのね。辞めて違う会社で仕事の範囲が制限されるよりは、ここにいる方が自分のためになると思った。それで頑張ったら、21歳のときに営業成績が1番になった。辞めるまでずっとね。だから自分でやろうと思ったの。社長のいうこと聞かなくても自分でできるぞ!と(笑)

-独立されてからブランド立ち上げまで5年ほど時間がありますね?
石川
 OEMって下請けのような仕事を最初は一人でやってたのね。でも結局下請けだから相手に振り回されちゃう。それが嫌で29歳のときに自分でブランドやろうかなって。そこから徐々に人が増えてきた感じかな。

-今は150〜160名ほど社員を抱える会社だと思うのですが、もっと頑張らなきゃっていう想いですか?
石川
 うーん、あんまり、規模が大きいからとか、社員のためにとか一切考えてない。

-そうなんですか!?
石川
 まったく考えてない(笑)そっちが中心になっちゃうと売れなくなっちゃうと思うんだよね。

-なるほど。起業して10年続く会社は3%っていいますもんね。何を大事にするのか…。
石川
 来年、うちは20周年。もちろん社員は大切だよ。でも一番優先しなければいけないのはユーザーだから。お客さんが一番大事。世の中に対して、常に自分たちの価値を、それこそ"VALU"をどれだけ提供できるかなんだよね。それができてたら、勝手にみんなを食わせられると思う。

-それは独立されてから変わらない一番大事な部分ですか?
石川
 そうだね。それが価値じゃん。相手をどれだけ喜ばせられるか、とかさ。ここにせっかく来た2人(VALU広報とライター)を笑わせられるか、とかさ(笑) それが価値だよ。で、帰るときに、涼さん面白かったねって、いってもらえたら勝ち。その積み重ねで、何かあった時に涼さんに頼りたいな、相談したいな。って、その延長が俺はビジネスだと思ってるから。まずは、隣の人を楽しませられるか。それが大事かな。

グローバル企業へ、今74億人に何をどう伝えるか。

-2010年東コレで最多動員数という結果を出した石川さん。その後、海外戦略を本格的に進めていくわけですが、きっかけは?
石川
 きっかけは東コレで自分たちのやってきたことが間違いじゃなかったんだってわかって、じゃあもう出なくていいやって思ったから。日本じゃなくて、世界に目を向けようって思って。そこで、さらに海外戦略を強めたのが2011年の東日本大震災。あの当時、色々なことに対して「自粛しろ」とか「不謹慎」だって声が上がったでしょ。まじで日本やばいなって思ったんだよね。だってさ、自粛したところで、みんなで何かを祈ったところで、お金はふってこないじゃん。だから社内に「俺らは完全にグローバル企業になるぞ」って宣言した。自分らがグローバル企業になってしまえば、日本支社がちょっと調子悪くてもカバーできるしね。

-世界と戦うって、すごく大変なイメージがあります…。
石川
 そういう考えがダメ。全然関係ないよ。本当に世界は身近だし、20世紀だったらよかったかもしれないけど、インターネットでもう世界とつながっちゃってるからさ。

-確かに。
石川
 例えばね。俺、タイに10年くらい通ってるマッサージ屋さんがあるの。おばちゃんたちが何十人かで運営してるんだけど。いつ行ってもおばちゃんたちは超明るい。「いらっしゃい!」って。明るくて優しくて面白くて、ちょっとこうギャグいったりしてさ。でね、ある日気付くんだけど、お客さんにタイ人は1人もいないんだよね。わかる? 全員外国人なの。欧米人もいるし、中国人も日本人も韓国人もいる。お客さん全員外国人なんだけど、おばちゃんはいつもおばちゃんなんだよね。何人がきても、全部の言語に対応して、いつも明るい。俺それに気づいたときに、これが一番日本に足りないと思った。今までの歴史でいくと日本の中だけでもある程度人口がいて、稼げるし、みんなが潤ってたからそういう努力が必要なかったかもしれないけど。これからやっぱ、そういう観光客が何人が来ても対応できるスタンスが超必要なんだよね。

-大きい意味での人と人、ですね。
石川
 そう。あのおばちゃん、グローバルだよ。あれがグローバルってことだと思った。

-何人が来ても、自分が自分でいるってすごいですね。
石川
 本当にそれが大事。大陸に住む人はさ陸が続いてるから、隣の人と違うことが当たり前じゃん。言語も変わるし、宗教も変わるし、肌の色の変わる。今自分にできることを全部やらないと、たぶん生き残れないよ。

-これからの展望や野望とかってありますか?
石川
 野望っていうものじゃないんだけど、常に自分がステージに立つ側じゃないといけないと思うんだよね。ライブとか見に行って「いいな」とか思ってる自分じゃいけないな。向こう側にいなきゃいけないなって。だから、自分の価値を探求するっていうか、自分の武器を磨き続けて、世界に1人でも多くのファンを作ることだね。それをやり続けるしかない。どこまでいけるかね。本当にそれしかないかな。人生をかけて。

(書き手:鎌田智春)

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