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日本の三大思想:スピノザ・プラグマティズム・道教

 学説としても一般論としても日本は多神教的であり西洋のような一神教的ではないといわれます。
 しかしそれは全くの誤認で、日本は一神教的風土です。

神道の由来は道教

 よくいわれるのは日本の神道は多神教であり、それがアニミズム的または汎神論的風土を形成しているというものですがちゃんちゃら滅茶苦茶な理解で、多神教とアニミズム(汎神論)は全くの別ものです。
 神道は多神教でもアニミズム、汎神論でもなく、一神教でもなく、寡神教です。
 寡神教とは一でも多でもなく幾つかの神ということで、道教、神道とキリスト教などがあります。
 神道の由来は天・地・人という三つの神を信仰する道教にあり、古代のシナに発祥し、朝鮮を経て日本に伝来したもの。
 道教は現地現物主義のため日本に伝わる際にシナや朝鮮の道教とは同じ形式を取らずに日本に合う形に再編され、それが神道になった。その総本山が伊勢神宮で、皇室の本尊はシナ朝鮮由来の道教にあります。
 神道の神とは天の神天照大神(あまてらすのおほみかみ)、地の神大国主命(おほくにぬしのみこと)と人の神素戔嗚尊(すさのをのみこと)の天地人をなす三者であり、いわばキリスト教の父と子と聖霊の三者の神のような構成です(勿論、構成は同様ですがその意味には違いがあります。)。それらの三者の神以外は神聖なる人や事象ではあっても神ではなく、そこを誤解することが神道は多神教だとか汎神論だとかの誤解につながっています。

 後に仏教が日本に伝来した際にはシナにおいて道教の影響を強く受けた密教(天台宗と真言宗)が選ばれ、旧来の神道に密教が加わり皇室の信仰が確立した訳です。
 故に古代からの日本の最も伝統的信仰と思想は道教ですが近現代はそれが三番手になっています。

江戸時代以降の日本思想の主流はスピノザ哲学

 江戸時代に伝来したオランダのスピノザ哲学が道教に代わる一番手、最大手の日本思想になり、大正時代に伝来したアメリカのプラグマティズムが二番手になって今に至ります。
 但しここにいう何番手というのは権力を背景とする影響力での順位であり、数の多い順かどうかは不明です。
 人間の思想はいつ変化するか分からないのでそれら三代勢力の人数の比もいつでも変化していますが、大雑把に推測すると概ねスピノザ哲学:プラグマティズム:道教の人数比は4:2:4程かと思われます。しかし影響力ではそれらが4:4:2程なのです。

 汎神論やアニミズムというのは江戸時代に日本に伝来したスピノザ哲学の特色で、神道に由来するものではない。
 汎神論とは全てのものに一つの神が宿るという思想で、基本的には一神教的、神とそれ以外を厳然と分けないだけで。
 例えば「壁に耳あり、障子に目あり。」という諺は汎神論に基づくもの。神の目が人に直接に働き掛けるのではなく辺りの壁や障子や何かを通して働き掛けるということです。
 アニミズムとは汎神論の具体的実践です。
 汎神論、アニミズムは江戸時代にオランダの哲学者スピノザにより理論化された西洋の古来の思想で、それが江戸幕府に紹介されて以後の日本の主流の思想になりました。
 江戸幕府は朱子学という儒教思想の一種をも受け継ぎましたが朱子学はどちらかといえば権力側の哲学であり、その影響を受ける人々は支配層がほとんどで一般にはあまり普及していません。日本社会に幾らかの影響を与えている面もありますが大抵は引用して悦に入る位のものです。朱子学のみならず儒教の全般が日本においては単なる建前主義の論に過ぎません。
 日本の古来の道教的風土は江戸時代のスピノザ哲学の時代の影響を受けながら少数派になってゆきました。当時はまだ国家神道というものはありませんがその脆弱化が明治時代に道教的神道が国家神道に変形されてしまう素地に既になっていたといえます。
 道教的神道と国家神道の違いとは天皇と共に祈ることと天皇に祈ることの違いです。

江戸幕府こそが世界標準的先進国

 幕末維新の歴史の謎というのも当時のオランダ、延いてはカトリックキリスト教を伝来したポルトガル・スペインのイギリス・アメリカに対する状況を勘案すると読み解けて来ます。
 特に日本の薩摩国・薩摩藩及び明治薩摩閥の動きはその世界史的状況が強く反映されています。
 江戸幕藩体制において最も利益を蒙っていた薩摩が倒幕の先頭になったのは幕府との横浜の開港の条約を締結したイギリスとアメリカが江戸体制におけるオランダとの友好関係を崩すと見たからです。要は二百五十年の恩恵を裏切られたということです。故に寧ろ当時により進歩的に情勢の変化に対応していたのは幕府であり、薩摩はその仇討ちとして復古的政策を唱えることになる。しかし、生麦事件を背景とするイギリスとの戦争に敗けた故にオランダとの関係の維持を詮めてイギリス・アメリカと和解することになった。するとオランダにとっては日本に裏切られたという感慨が残り、それが後の世界大戦におけるオランダの反日の気運につながる。ただでさえ日本が恨めしいのにインドネシアを奪われさえした、許せないということで今度は日本を奪い去ったイギリスやアメリカを味方に着けて日本を叩き潰す。つまり原爆の主は西郷隆盛だった訳です。
 カレルバンウォルフレンの「日本の管理者(administrators)」というのもその歴史のアナロジーです。その論の善し悪しはさておき、その種の日本の改革論が得てして非平和的若しくは泥沼的になってしまうのはそのような歴史の因縁から来るものだからで、日本人の気質や国柄とは関係がありません。

 気質や国柄とは無関係ですが思想哲学は多少の関係があります。
 それが汎神論とプラグマティズムです。

明治維新から始まった日本の迷走と大正民主主義から普及したプラグマティズムの支配

 人間は意外と言行一致、即ち正直なもので、多くの場合は自分の思う通りや言う通りにしかできません。言行一致で正直だから偉いのではなくそれが至って普通なのです。
 故に人間の言動はそのほとんどが思想哲学の実行に過ぎないと見るべきです。思わないことや言っていないことはほとんどできないのです。
 汎神論者は汎神論の通りに言動するしプラグマティストはプラグマティズムの通りに言動しています。他も同じです。
 言行不一致、言うこととすることが違うというのは或る者が異なる幾つもの思想哲学を併せ持っており或る時に取る言動は他の或る時の言動とは別の思想哲学に基づく場合と見る人が単に彼の思想哲学について知らないので言動との一致をも見出せずにおかしいかのように見える場合です。
 前者は懐の広い人ほど言行不一致の余地が多いということであり、後者は無知な人ほど他者の言行を不一致と見がちということです。例えばウォルフレンも推していた小沢一郎は前者である故に後者により嫌悪され易い。

 小沢一郎を嫌悪する方々に多いのがプラグマティズムで、イギリス・アメリカとの友好関係が出来て来ていた大正時代の伝来です。
 尤も、元々日本にはあまりなかった汎神論のスピノザ哲学とは違い、プラグマティズムは元々日本にある思想感覚に理論的補強を与えたという性格のものです。少数だがかなり影響可能性を持ち続けており、それが大正民主主義(大正デモクラシー)を通し国家社会の表層に現れ出したという感じです。
過去にそれが表層に現出した例は鎌倉時代の日蓮宗で、日蓮宗は儒教とプラグマティズムという日本の少数派だが根強い思想が宗教となったものです。
 儒教は権力側の哲学でプラグマティズムは庶民側の感覚。それらの融合により民衆の支配たる民主主義の時代の旗手となろうというのが大正民主主義です。
 因みに渋沢栄一の『論語と算盤』というのも儒教とプラグマティズムの融合です。
 現代にも広く見受けられる通俗的日本人論の多くは肯定的にせよ否定的にせよその儒教とプラグマティズムの見地から論じられているものです。
 例えば日本人と汎神論ということについてもそれが江戸時代のスピノザ哲学に由来するということは知らないか知っていても意図的に曲げて古代以来の神道に由来するという風に歴史の修正をします。
 そして現在の与野党を見ても分かるように、儒教プラグマティズムは党派を横断して点在します。やはり多数ではないが強い影響力を持っているのです。

 凡そ鎌倉時代に一定の勢力を持つようになった儒教プラグマティズムにとり、スピノザ哲学に基づく日本の最大多数派は儒教的指導精神のない大衆的享楽主義であり、道教に基づく日本の最古伝統派は庶民の心情を知らない既成勢力であると見えます。
 前者の近代的合理主義は物質的快楽に依り恃み、後者の古典的伝統主義は宗教を阿片として民衆を騙すものだという。今日的にいうと典型的反リア充の意識高い系の発想です。
 実は宗教は人民の阿片だという共産主義、とりわけ中国共産党の由来はそのような日本の儒教プラグマティズムにあり、日本に留学した中国の学者達がそれを中国に伝来して生まれたもので、マルクス主義は元々は共産主義との直接の関係はありませんでした。西洋の共産主義はそれがイギリスの(それも少数派の)プラグマティズムと結びつきながら派生したものです。
 イギリスと比べると多いアメリカのプラグマティズムもまた共産主義に転化する虞が多分にあったことによりアメリカは反共産主義に腐心することになった訳です。

 しかし当の日蓮宗は宗教なので宗教は人民の阿片だとはいえ宗教そのものをなくす訳にはゆかず、故に阿片のようではない健康飲料のような現実主義的宗教たるべしということで色々と分派を重ねている訳です。
 現代の日本の言論空間において「現実主義」といえば多くはそのようなことを意味します。

 日本の神道は道教に由来するとはいえまだしも単純清楚で利用の余地があるがシナ朝鮮の本場の道教やその影響の強い密教は儒教プラグマティズムからすると非常に現実逃避的で不健全だということになる。
 神社の巫女の服はどう見てもチマチョゴリと同類なのですが彼等はそれらをあくまでも異質で相容れないものとして巫女を健全なる日本精神たる自分達の側の対象にしようとする。
 尤も日蓮宗にも様々あり、池上本門寺のようなのはそのような思想色のかなり脱けている、法華経そのものを大切にする信仰です。その歴史的変化はキリスト教におけるルターについての評価の歴史的変遷と似ています(因みにありがちな親鸞ルター説は全くの誤解で、浄土教はルターとはかなり異質です。日本のルターは日蓮であり、親鸞は寧ろザビエルに近いです。)。

 日本の民主主義が発達しないのはプラグマティズムに基づく大正民主主義から始まってそれが未だに変わらないからです。
 とにかく民衆のため、庶民のためという意識ばかりを高くしておけばあとは支配者が適当に解決してくれる、そういうプログラミングです。
 昔のアメリカも民衆が言いたい放題に言っておればあとは大統領が適当に解決してくれるというプログラムで動いていたのです。
 まあ、そんな美しくない時代は安倍さんの時代で最後になってほしいと思います。

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