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人間にとって神とは:「親子で」考える神の存在

 『私にとって神とは』という遠藤周作の随筆があります。
 自分にとっての神がある、それは必然です。自分は人間の一人なので、人間にとっての神があるならば自分にとっての神もあることになります。
 遠藤がそれを記した昭和後期の時代は日本を一とする西側世界における経済成長と術理革新の高まり、それらの利用可能性による思想や利益の個人化が勧められた時代です。そして日本に引けを取っていた欧USや中国が南側世界の発展の支援と共に経済成長と術理革新を加速した平成の時代はその思想や利益の個人化が更に強まり、それが停滞と衰退の日本にも影響していますが一方には個人化を懐疑或いは否定して思想や利益の共有化を志向する向きもまた世界的に強まっており、特に旧東側世界の旗手ロシアはその代表的存在とされています。

 解答から言うと、個人化も共有化も必要です。それが人間です。
 共有化をいう人々もそれを言う個人の自由は個人化主義者よりも主張します。個人化をいう人々も個人の自由の預託や制限を肯定していたりします。
 要は幸福ならば全て良しなのですが、先日に逝去の幸福の科学の大川隆法総裁が日本に初めて幸福という語を普及させたそうです。それまでの日本には貧富老若男女を問わず幸福という語には馴染みがなくて幸福という観念がなかった。憲法には幸福追求権という概念がありますが本条文に書いてあるのではなく六法全書に見出しとして書き添えてあるだけなので一般の人々はあまり見る機会がありません。
 それまでの日本は、幸せというのはどちらかというと不幸な人のいうもので、不幸ではないということに価値や意義があった。幸せになることにではなく不幸にならないことに、即ち不幸という観念が先ず思想の本位にある。「初めに不幸があった。不幸は人であった。」という。
 また福とはシナ朝鮮由来の道教的概念で珍重すべしではあれ日本人の思想には本来的には合わないものだという通念が近代の日本には広まっています、道教は日本の原思想なので決してそんなことはないのですが。
 不幸を避けて防ぐこともまた人間の基本ですが近代の日本は幸福を求めることは不幸だという観念が強く、大川と同時代のオウム真理教の麻原彰晃はそのような近代日本思想の原理主義といえます。要はその辺の日本人の頭の中は麻原と同じ。
 大川と麻原はその点が大きく異なりますが一つ同じ点はいずれも「親子」という概念のないことです。
 オウム真理教は出家を至上価値とするのでその理由は分かり易いですが幸福の科学は出家を求めないがその教理には自己とその信仰の対象の関係を親子とは捉えない。いわば全くの赤の他人を偉大なる者として尊ぶという関係な訳です。それは血縁関係としての家族を全肯定したい人には能く合う。すると政治的には必然にアメリカの少数キリスト教派のような宗教右派になる。麻原のオウム真理教とは明暗に、平成後期の日本の政治と思潮を先導していたようです。日本人は宗教嫌いなようでもそのような小林幸子的絢爛パフォーマンスと家族の積極肯定には滅法弱い。人畜無害で悪くはないのでしょうが、いわば日本の国教はそのような紅白歌合戦教です。日本政府は特定の宗教を国費で助成しています。

 日本の原思想、古代以来三千年の歴史のある最も古い思想である道教(及び神道、密教とキリスト教)は何れも濃淡の違いはあれ、自己とその信仰の対象を親と子の関係として捉えます。
 いわば、血縁としての家族(これは社会ではないのでいわゆる家族は社会の最小単位という思想とは異なります。)の他にもう一つの大きな家族というものが存在するということもできます(実際にはあまりそのようには云いません。)。
 因みに儒教はそのような大きな親子家族としての固有の社会というものを持たずに孔子という赤の他人の賢人の言葉とその理解(読解)のみにより血縁家族を基礎とする家的大社会(必ずしもイエ社会と呼ばれるようなものではないがそれを含む場合がある。)の観念と実体の形成を目指すもので、キリスト教の中でも聖書のみに拠るべきとするルターを一とする新教には儒教に近い信仰があります。彼等にとり孔子のような存在は聖パウロであり、赤の他人の賢人がその書を通し親子家族という全地上全被造物の大秩序を悟らせるという。
 日本のキリスト教勢が凡そ6:4程で新教が多いのは江戸時代後期から明治時代に強まった儒教の影響でしょう。
 Twitterなんかにもよく、何か無理解や対立が生じた場合に「お前の読解力がないからだ、」や「日本語が分からないのか?」などという説諭や罵倒がありますがそういうのは儒教と新キリスト教の日本における歴史的影響の負の側面の現れでしょう。私などのように読解力にも優れて日本語に能く通じている人はそんなことは決して云いません。単に話を続けるか見捨てるかだけです。しかし近現代の日本の教養主義的教育はそのようなTwitter的言論というものを助長しています。Twitterだけではなくテレビなどの旧媒体を含むあらゆる言論の場がTwitter紛いなのです。

 親子とは何かを理解するには、麻雀が好いです。

 先日に台湾に麻雀の振興を目的とする政党が出来ました。
 麻雀はスポーツなので、いわば台湾のスポーツ平和党です。
 しかし、近年の日本はプロレスの人気は尚も根強いようですが麻雀はかなり下火にあるのではないでしょうか。
 それもそのはず、麻雀は今時の日本人が積極護持しようとしている血縁家族とそれに基づく国家社会というものを相対化するからです。安倍は口先では台湾との揺るぎない信頼関係を述べましたが自らも学生の頃に興じていた麻雀をこれから取り戻されるという日本には相応しくないものとして根絶しようとしました。事実上は台湾を地球から消そうとしているのと同じです。

 人間は自分の産む子供の親たるだけではなくそれぞれの持場立場に応じ、人間と世界の親でもあるのです。
 人間は神ではないというのはそうですが、いわば人間は神たる義務がある。
 それはある時に何か凄いことをして「神(ネ申)」になるというような平成的観念風景ではなく、今直ぐに神になり始める義務があるということです。
 それを私はGodでもgodでもない、中文字の神と呼びます。
 YHWHは書き表せても言えない語ですが、それは言えても書き表せない語です(筆記体なら書き表せますが活字では無理です。)。
 勿論その神になる義務というものは国家により要請されるものではなく遠藤周作が『私にとって神とは』と問い始めたように、個人が歴史という空気を感じ取ることによる悟りから始まるのです。

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