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「冥福を祈る」を廃語にすべき:diversity

 冒頭の写真が臨済宗の瑞鹿山円覚興聖禅寺なのに浄土真宗の話になりますが、浄土真宗の宗祖親鸞の得度の時に使われたという剃髪のかみそりが公開されたそうです。

 一つこの記事の誤りの指摘をさせていただくと、東本願寺とは東京の浅草にある浄土真宗東本願寺派本山の寺で、そのかみそりを公開したのは同宗大谷派の真宗本廟です。
 真宗本廟は通称として本願寺派本山の龍谷山本願寺の東隣にあることからお東さんとも呼ばれますが東本願寺とは呼ばれません。

 大谷派は剃髪が任意のため髪のある僧侶が多いですが親鸞の時代には以上のような分派がなく僧侶は皆髪を剃り落としていたようです。

 円覚寺の臨済宗もいわゆる鎌倉仏教と呼ばれる、浄土真宗と同時代に出来た宗派で、日本史上最も後世に多くの影響を与えたのは京都が中心の時代ではなく神奈川県鎌倉市が中心の時代でした(県民の主張。)。

 安倍晋三総理の宗旨は浄土宗で、浄土真宗より日本においては少し古い宗派、シナの浄土教の系統で、東京の芝にある大本山三縁山広度院増上寺など。そのためその葬儀は増上寺にて行われました。
 浄土宗の信者数は六百万人で日本人の二十人に一人。
 浄土真宗の信者数は千五百万人で日本人の八人に一人。
 合て日本人の六人に一人が南無阿弥陀仏。

 かように日本に大きな根を下ろしているにもかかわらず、日本社会は南無阿弥陀仏の浄土系の慣習については捉えようによっては差別ともいえる程に無知であります、数が多いから差別してはならないという訳ではありませんが。

 安倍さんの浄土宗については情報が乏しく知らないところが多いですが浄土真宗は現代の日本の慣習からするとかなり異質なものが多くあります。
 因みに、私の御贔屓とする宗教は真言宗、臨済宗、ギリシア正教、カトリックと聖公会で、伊勢・熱田・明治・鹿嶋の四大神宮を詣でた体験があります。また、父が長野近郊の出身なことから宗派の分立のなかった古代からある長野の善光寺には八幡屋礒五郎の七味唐芥子や自社製車輌の時代の長野電鉄を含め格別の尊敬があります。
 いずれも国家体制寄りなことが特徴で(なのでほぼ必然に政治に関しては保守です。)、時に体制権力と対立する浄土真宗は私にとりなかなか謎の存在でしたが一つ完全に同志だといえる特色があることをこの程に知りました。

 それは死者を弔う際に「冥福を祈る」とは絶対に言わないことです。

 簡単に説明すると、南無阿弥陀仏を信ずる者は生前にも即身成仏をするが死に際しても即身成仏をするので遺された人々がほぼほぼ何も祈る必要がなく、そもそも成仏というものには冥界というようなものはないということから。
 但し注意点は冥界と死後の世界は異なることで、浄土真宗も私も死後の世界はないということではありません。
 原始仏教は死を入滅といい、そもそも死後の世界についての言及を避けることが特色ですが浄土真宗はその本義をそれなりに受け継いでいる。
 南無阿弥陀仏という六文字が少なくとも一般の信徒にはほぼ全てのtextなので、他の宗派等には普通にあるような加持祈祷もありません。

 私はさようの浄土真宗と同じ信仰を持ちませんがそれとは多少違う観点から「冥福を祈る」という言辞は決して遣わず、または「永眠」とも絶対に言いません(今言うてるやないかという揚げ足取りはよくありますね。)。

 しかし日本人の八人に一人が浄土真宗で私のような閣外協力者みたいなのもちらほらといるのに、日本人は誰かが亡くなるとLIVEでも電子メールやTwitterでも「御冥福をお祈りします。」と言い、個人の感想ならまだしもテレビの司会者や解説者などが公共の電波で「御冥福をお祈りします。」と豚に真珠ならぬイスラムに豚のようなことを平気でしています。
 また、式典や国会などにおける黙祷もやめるべきです。特に原爆の日や震災記念日にはいつも虫唾が走ります。如何なる形であれ公共の場には宗教的表象を廃するべき。それは宗教を排する訳ではなく宗教の自由とdiversityを守るためです。

 因みにdiversityとは多様性ではありません。
 Diversityの正確な訳は別志向性です。
 宗教なんかは特にそうですが、日本はdiversityを多様性といっているので色々と頓珍漢なことになる訳で(多様性ならvarietyです。)、すると「冥福を祈る」も多様性の一つなのだから良いではないかということになってしまいます。しかしそういう多様性が別の多様性を侵略することは経験の範囲内の方々も多いでしょう。
 浄土真宗とか真言宗とかの既成の別志向を守る、多様かどうかは先ずはどうでもよいことで、異なる志向を持つ人々がいるという現実を守ることがdiversityです。
 それがほんの最低限度なら触らぬ神に祟りなしということもdiversityの立派な戦略の一つです。

 浄土真宗には他にも他とは異なる特色があります。
 これは関西人なら誰もが知るものですが、葬儀の心づけ料の表書は御仏前というのも元は浄土真宗の慣習からのもの。それが関西には宗派を問わず一般になっていますが関東などはそれを御霊前とし、御仏前は法要にするという奇習が現代の日本の標準の作法とされています。
 私は現地現物主義とはいえど奇習はその限りではないので関東でも関西と同じく葬儀の心づけ料の表書には御仏前と記し、法要には上と記します。キリスト教や神道なら仏教の初七日に多く用いられる志と記します。御霊前、御香典や御花料は用いません。
 或いは何も書かないことも良いと思います。
 御霊前というのは霊肉二元論の匂いがするのであり得ません。
 因みに水引が黄か黒かはどちらでも良いと思いますがなるべく調達できる限り黄の水引の封筒を使います。これは仏教なら尚更ですがキリスト教もその信仰宣言にイエスを一とする死者は「黄泉に降り」とあるので黄色が妥当です。

 今世紀は貧困層への配慮もあり、葬儀そのものが少なくなって来ているので葬祭の作法というものもあまり馴染みがないかもしれませんが逆に機会が少ないだけに一度の間違いが永久に残りかねない時代です。
 先ずは「御冥福」、「永眠」と「御霊前」をやめる、それは日本人として必須です。黄色か黒かは好みのしるしで良いです。

 蛇足ですが、よく親鸞は和製ルターといわれることがありますがそれはずれています。
 カトリックに好意な織田信長が浄土真宗と対立して大阪の石山本願寺を焼討にしたことから浄土真宗を権力に抗議する抵抗勢力、だからルターという見方が出ているのでしょうが親鸞が浄土真宗を創ったのはその二百五十年も前で、鎌倉時代の当時の浄土真宗には抵抗勢力というような特徴はありませんでした。
 南無阿弥陀仏を唱えて信ずれば極楽浄土が保証されるという信仰は寧ろ「めでたし聖寵充ち満てるマリア、」と唱える天使祝詞によりあらゆる願いが叶うというカトリックの信仰に近いものがあります。
 ルターは「聖書のみ。」と云いましたが、南無阿弥陀仏と聖書はその文字数が違い過ぎます。
 石山本願寺は日本のBasilique du Sacré-Cœurだと思います。
 バジリクドサクレクールとはパリのMontmartre(モンマルトル)にあるイエスの聖心(みこころ)を記念する聖堂です。
 尤も、カトリックのマリア信仰にはミミ萩原みたいな例もあったりしますし、日本を一とする各地の野蛮信仰と都合好く習合されている例もあったりして必ずしも良いといえるとは限りません。バチカンのローマ司教についての報道などに見受けられるようにカトリックに好意ぽい報道をする読売新聞なんかもその一例で、それはキリスト教でも諸宗教でもなく、世界に最も野蛮な日本教、日本的価値観の流布に都合の好いものになることがしばしばあります。
 その点、阿弥陀仏はジェンダーの縛りもないし、21世紀を生きる人間の一つの標としてとても有望なのではないかと思います、般若心経を信ずる私としては六文字だけではちょっと寂しいとは思いますが。

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