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気を遣うプロダクトと偽物の付加価値について

令和に入り、ものを作るということの価値観が大きく変わってきたと感じている。

ものではなくコトを消費する。と言われたり、

何を買うかではなく誰から買うかだ。などと言われることもある。

プロダクトやサービスを作る際に"どんなものなのか"よりも"誰が作ったのか"が大切だ、そしてそのもの自身ではなくその商品が与えてくれるストーリーや心の価値が大切なのだ。

そんな時流があると感じている。

そして僕はその考え方に疑問を持っている。


気を遣うプロダクト


僕がサービスを作ったりプロダクトを作ったりするときに絶対譲りたくない条件が1つだけある。


1.ヴァレイだから買ってくれるプロダクトでないこと。


現在"誰から買うか"が重要であり、ストーリーを買うという時代の中で

"ヴァレイだから買ってくれる"というプロダクトだけは作りたくないと思っている。

結果としてお客様が「ヴァレイを応援しているから買ったよ」と言ってくれることもあるし「とてもいい商品だね!」と言ってくれることもある。

それはとてもとてもありがたいことなのだけれどヴァレイだから買ってくれるというのはなんだか僕の理想とはかけ離れている。

この考え方は完全に時代に逆行した考え方かもしれないがアマノジャクなわけではなくしっかりと理由がある。

その理由は"気を遣うのが嫌"だからである。

僕にはポリシーがあって

「使っていると知らない間に世界が良くなっていた」

という商品やサービスを作るべきだと思うのだ。

例えばクラウドファンディングサイトのMakuakeだと物づくりはできるけど知名度がなかったりする職人や企業がMakuakeによる広報や後押しにより設計、拡散され商品が売れる。

Makuakeが理念にしているように「本来残るべきものが残る」状態が生まれるわけで物づくりをしている企業としては売り出すきっかけを得ることができる。

顧客も今まで知らなかったものを誰よりも早く特典付きで購入することができるし、新しい物好きにはたまらないだろう。

売りたいけど販路がない人がノンリスクで挑戦できて、買いたい人は誰よりも早く手に入れることができる。

その仕組みはどちらも気を遣わずにただ"良い"と思って使っているのだ。

結果として受注生産により余計な在庫を作らなくても良いし、環境負荷も少ない物づくりができるし職人や企業がその規模の大小にかかわらず適正な評価を得ることができる。

ただ使っているだけで社会が良くなる仕組みを作っているほぼ完璧に近いサービスだと僕は思っている。(回し者ではないのだけれど)

このように長く続けるためにはこのどちらも気を遣わない関係が必要なのだ。

夫婦関係で言うと「好きなところが多い人よりも、嫌いなところが少ない人がいい」と言うのに近いのだろうか。

とにかく"相手を思って"とか"ストーリーが好きだから"とかそんな理由では長続きしない。

「自分たちは頑張って作っている」

「自分たちは絶滅しそうだから助けて欲しい」

「こんな歴史があるから買って欲しい」


こうなると確かに最初は売れるかもしれない、人には善意がある。

だけど買う側が気を遣うことになる。

「このプロダクトを作ってる人をなんとかしたい」とか「助けたい」とか、

そんな価値を感じて買うことになる。

その善意だったりプロダクトの魅力以外の価値で買われた物もかわいそうだと思うのである。

(好きじゃないけど、おいしくないけど、使いづらいけど)使ってる。

って気がしてしまう。

そしてその企業がまた同じようにストーリーなどを使ってプロダクトをリリースする。

そうするとまた善意でものが売れてしまう。

これを繰り返すうちにだんだん逆に企業側が"気を遣う"のだ。

そもそもプロダクトを好きかどうかわからないけれど自分たちのために買ってくれているのだ。

そんな感覚に陥ってしまう。


僕はお客様に対して「申し訳ない」と思いながらものを売りたくない。

僕がものを買う時も「かわいそうだから」と買うのも嫌だ、

「かわいそう」だけでなくても「あの人だから」とかそんな理由では買わない。


偽物の付加価値

ものが溢れているこの時代だから差別化として"付加価値"という言葉が言われ始めた、

同じ白いTシャツを買うならばストーリーがあるものの方がいい

同じお米を買うのであれば地元のものがいい。

いろんな付加価値がありそれはそれで素敵なものだったのだけれど、

ある時から付加価値が一人歩きを始め、まるで付加価値がそのものの価値かのように捉えられ始めた。

付加価値とは100点の商品を120点にするために付加されたものであり、

80点の商品を100点にするために付加されるべきものではないのだ。


だから僕は「ヴァレイだから」という理由で商品を選んでもらうことがとても怖いと思っている。

結果としてそうであったとしても決して作る側の僕たちが"付加価値"を付加するべきではなく、お客様にのみ付加できる価値が付加価値なのだ。

だから僕は作る側や売る側が"付加価値を高める"なんていうのはちゃんちゃらおかしいと思っているし、気持ちが悪いなぁと思っている。


付加価値が産んだ低クオリティ化

その少し歪んだ付加価値という考え方が日本中を覆っている。

そしてそこに生まれた影がある、それはプロダクトの低クオリティ化だと思う。

マーケティングやブランディングがとても上手い人たちが出てきて、

80点の商品を100点にするどころか付加価値が元々の商品を超えて180点の商品であるかのように表されるコトも出てきた、

つまりプロダクトのクオリティに関わらず誰が売ったら売れる。という状態が生まれてきた。

結果としてわざわざクオリティにお金を払わなくても、拘らなくても商品が売れるようになってしまったのだ。


Tシャツを安く仕入れてきてタグを付け替えてプリントして自社ブランドとして売り出す人たちが「アパレルブランド」として評価されるようになってきたのだ。


マーケティングやセールスのレッスンで良く「100円で買ってきたボールペンを1000円で売る」という話を聞く。

僕はやっぱりそれは大嫌いなのだ。

確かに売り方や売る場所などで1000円で売ることはできるだろうが、売り続けることはできないしお客様との約束ができていないと感じてしまうのだ。

それよりも、1000円で売れるボールペンを作る。そして適正に売る。

それこそが商売であり、気を遣わず長く続ける商売なのだと思うのだ。



理想とする物づくり

僕はやっぱり付加価値は付加価値であって欲しいと思っている。

企業である僕たちがお客様のことを想い、社会のことを憂い、地球のことを考えて思考を凝らして商品やサービスを開発する。

お客様はそれをヴァレイのものだと気づかずに使っている。

もしくは気付いてはいてもヴァレイだから使っているわけではなく、それがとても素晴らしいから使っている。

そして知らない間に作る職人も、お客様も、地球も、社会もハッピーになる。

そしてその気を遣わない関係が将来永劫続いていく。

それが僕の理想だ。

やっぱり僕は裏方でいたい、目立ってしまうことも多いけれど、

ヴァレイだから買うんじゃなくて、いい商品だから買う。

そんな商品やサービスをこれからもリリースし続けたいと思ってる。



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