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拝啓、どうせ無理と言った高校の先生へ

「芸能界に行きたい?お前は人生を舐めてる、今ここで頑張れないやつが一握りしか成功しない芸能界で成功するわけなんてない」

ベタなセリフだなぁ。
そんなふうに高校生の時の僕は聞いていた
「本当にこんなことを言われる人がいるんだな」とか思っていたけれどそれは紛れもなく自分だった。
普通はこういう先生は「酷いことをいう先生だ」などと批判されたりするのかもしれないけれど高校生の時の僕は本当に酷いもんで、今から考えると先生の言ったことは正しいのではないかと思う。

というのも結局僕は芸能界を引退して、ジャーナリストになりたいという目標も変わってしまって今は服作りの会社を経営している。
先生の言った通り「芸能界で成功する」という目標に失敗している。


高校時代の自分

僕は奈良県ではまぁまぁレベルが高い奈良高専という高校に通っていた。
高専はかなり特殊で5年制の学校で1年生からかなり専門的な工業などを学ぶ。
例えばバイクや車が好きな人や、ガンダムやアニメが好きな人もその学校に入って工業や電子制御を学んだりする。
国立の高校ということもあり定員は少なく就職率はかなり高い。
僕は特別に工業が好きということはなかったけれど、母が離婚した父親が「お前には奈良高専にいってほしい」と離婚してからもずっと言っていたのでなんとなく近くにいてあげられない代わりに夢の一つでも叶えてあげたいな。
という小さな親孝行で奈良高専を選んでいた。
受験勉強はハードだったけれど、学ぶということが好きだったことと何かに没頭すると周りを見ずにやり続ける癖があったので楽しい受験だった記憶がある。

高校に入ってから「あ、違うな」と思うまでかかった日数は2日くらいだった。
初日は自分も緊張していて「誰と友達になれるんだろうか」と思っていたが、2日目になった途端にバイクも、車も、自転車も、ガンダムも好きでない自分がマイノリティだということに気がついた。

奈良高専ではほぼ全員が「好き」を持っていた。
特別「好き」がなく親孝行という気持ちで入学している僕にとっては居心地の良い場所ではなかった。

それでも中学から続けていたラグビー部に入って、勉強はともかく部活という共通点があることで3年生まではなんとかやっていたのだが2年の途中から勉強がどんどん専門的になっていってはっきり言ってついていけない。というか興味がないことを学び続ける目的を完全に失っていた。

その時の生活はというと「行ってきます」
そう言って中型バイクにまたがって家を後にする。
その後僕よりも後に家を出る家族が仕事や学校に行った後にこっそりと家に戻ってきて昼まで眠る。
仕事に行った母親がそろそろ昼ごはんを食べに戻ってくる時間になるとまたバイクに跨ってツーリングをする。

そんな生活だった。
お金がないから「お金になること」と「お金がかからないこと」を探す日々だった。

そんな時に出会ったのだ「ダンス」だった。
駅前をふらふらと歩いている時に当時大ブレークしていたブレイクダンスをしている人たちがいて、それを見た時に衝撃を受けた。

「自分がやるべきことはこれだ」

そう思って衝撃を受けた。

実は自分は小学校の時から芸能人になりたいという夢を持っていた。
なぜかバック転ができれば芸能人になれると盛大な錯覚していた僕は中学校の時からバック転の練習をコツコツと積み重ね、バック転やバック宙もできるようになっていた。
これで芸能界に入れるとこれまた大きな勘違いをして新聞の広告欄にあった「タレント募集」にハガキを送ってみたりしていた。
駅でダンスに出会った僕は頭で点と点が線になった感覚がありおそらくその線は
「成功する運命の出会い」ではなく「自分が自分らしく生き残れる場所」という当時思っていたものではなかったもののそれなりに衝撃が大きかったのだ。


「成功するわけがない」

すぐにブレイクダンスを始めた僕は元々の性格もあり没頭した。
毎日毎日飽きるんじゃないか?ってくらい熱中した練習した。

そうすると元々不登校気味だった僕はさらに学校に行かなくなった、幽霊部員だったラグビー部の士気も下げてしまうし、ここはきちんとやめたほうがいいみたいだ。
そう思って当時の顧問の先生に伝えに行った。

「先生、僕はラグビー部を辞めます」

そう伝えると先生から「辞めて何やるんだ?」と聞かれた。

「芸能界に入ります、そのために今ダンスをやっていて将来はタレントとして活躍したいと思っています」

そう伝えた後しばらく沈黙があった。
もしかすると20秒くらいだったのかもしれないが、僕にはとてつもなく長く感じる時間だった。

その後先生が目を見開いて僕にこう言った
「芸能界に行きたい?お前は人生を舐めてる、今ここで頑張れないやつが一握りしか成功しない芸能界で成功するわけなんてない」

この言葉が僕の人生を大きく変えてくれるものだった。

その後にでた自分の言葉は「挑戦をせずに、諦めたくないです」だった。
その後先生は「せっかく奈良高専に来たたのに」とか「お母ちゃんへの感謝の気持ちが」とか「何万人に一人しか成功しない世界で」とかいろんな言葉を伝えてくれた。

しかし、自分の耳には入ってきていなくて
「挑戦をせずに、諦めたくないです」
と自分が吐いた言葉が自分の耳に入ってきて、その言葉を自分が発したのだと自覚して興奮していた。

高校生とはいえそれまでの人生でかなり多くの時間を他責で生きてきて、沢山の時間をいじめられっ子として過ごしてきて、自分なんて生きる価値がないのかもしれないと思っていたそんな自分が自分の口で「諦めたくない」と言ったのだ。

その後先生の部屋で何が起きたのかはほとんど覚えていなくて、気がついたら僕は高校を辞めていて専門学校に入っていて、19歳で初めてのドラマの現場に参加していた。
22歳で決して大きくない訳ではあったがセリフがある役でテレビドラマに出演してエンドロールにも名前が載った。

そして23歳になった時に自分は芸能界を引退した。

先生が言った通り「成功」はできなかった。

先生が言ったことは正しかった

先生が言ったことは正しかった。
結局僕には芸能界で生き続ける覚悟がなかったのだと思う。
途中でやりたいことができて、逆にいうと「途中でやりたいことができる程度」
にしか熱中しておらず、結果として成功しなかった。

数十万人が成功を目指して熾烈に競い合う芸能界においては自分の熱量が足りなかったのだと思う。

先生は当時の僕が「人生のために」と選んだ道ではなく「逃げ道」として芸能界を目指していたからそれを止めようとしてくれていたのだと後になって思うようになった。

それより以前は「夢を諦めさせるような言葉」と思っていたし、とても悔しかった。
だけど当時の僕はきっとただ、目の前の嫌なことから逃げようとしていたんんだなと思うから、皮肉でもなんでもなく先生が正しかったと思う。

先生に感謝

先生は正しかったな、と思うと同時に僕が先生にとても感謝していることがある。
それは自分の口から出た「挑戦せずに、諦めたくない」という言葉を発することができたことだ。

今の自分があるのはその言葉あるからというと少し大袈裟で、

正確にいうと「その言葉があるから」は数百個あるのだけれど、その1つ目は間違いなくあの場所であの言葉だった。
僕が自分の人生を自分の意思で歩き始めた一歩目だったから。

先生の批判的な言葉であったけど、その言葉に反応して「挑戦せずに、諦めたくない」と言えたことで自分は自分の人生を諦めたくない、挑戦したいという明確な意思が生まれその後の人生を自分で歩いていくと決めるきっかけになったのだ。

その後僕は沢山の批判的な言葉に向き合ってきた、
芸能界を引退する時ある人は「もったいない」と言ったり「今まで応援してくれた人を裏切るのか」と言われたりもした。
オーストラリアに行くときに「日本から逃げるのか」とか「行って何になるの」とか言われた
起業する時も「就職もしていないのに」とか「そんなサービス山ほどある」と言われてきた。

そしてその都度最初の先生の言葉を思い出した。
正確にはその後に自分の言葉だ「挑戦せずに、諦めたくない」

批判的な言葉は鏡だ

批判されても、それでもやりたいと思うならそれはやるべきことだ。

批判された時、諦めてしまう程度のことは辞めておいたほうがいい。
自分は先生から本当に大切なコトを学んだんだ。
高校生というまさに自分自身の人生のスタート地点で、自分の意思をはっきりと示すきっかけを与えてくれた。
僕は挑戦することが好きで、諦めることが嫌いだということを教えてくれた。

今経営者としていろんな困難に向き合う、その時に「こんな困難なのにまだやりたいのか」そう問いかける。
それでも「やりたい」と思うから挑戦を続ける。

それは高校生の時の僕が「諦めたくない」と自分の口で言ったから。

それに気づかせてくれた先生には本当に感謝しかない。

ありがとうございました。


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