会話の中にあるリズムとテンポを発見して、僕らはPodcastを始めることになった
朝目が覚めると、まず目に入るのはいつもと同じ天井だ。
だがやはり同じ景色を見ていたとしても、今日の僕は少し違うようだった。前日にnoteを無我夢中で書いていたり、ギターを少し弾いたり、夏目漱石の「こころ」を読んだりして深夜の3時を超えてから寝床に入った。だからか少し寝不足気味であった。ただそれが原因で違うわけではない。
それは、この日を迎えるにあたって少しばかりの高揚と胸を引き締めるような緊張を感じていたのだと思う。
偶然ではない「何か」が僕を導いているのかもしれない
高揚については、早稲田大学の同期であり同じゼミに所属していた友人と久しぶりに会う約束をしていたからだ。これは僕も正直思ってもいなかったが、振り返ってみればこの再会は偶然ではなく何か特別な引力のようなもので会うことになったのではないかとさえ思っている。
きっかけは、僕が書いた「僕は僕として生きる。生きたいと願う心があるから僕は生きている。 」という記事を読んでくれたらしく反応してくれたことだった。この記事は、「何で生きてるんだっけ?」」「なぜ僕は生まれた?」というの疑問を早稲田大学名誉教授である加藤諦三さんが27歳の無名の時期に書き記した「生きる」という本の力を借りて、考え、書き記したものだ。要約すると、「私が生きたいと願っている、だから私はここに在る」という出発点からこれからの人生を生きるぞ、という表明のようなものだ。
余談であり興味深いのだけど、この本は本屋さんで100円で売っていた。誰かもわからない青年が斜め上を、あるいは遠くを、鋭い眼光で見つめている表紙に、「生きる」というタイトルに思わず僕は手に取った。その本屋さんに数千冊置いて合ったのだ。なのに僕はこの本を選んだ。「インドが僕を読んでいる」のような話をしたいわけじゃない。
僕が言いたいのは、
数多くの情報を削ぎ落とし、ある一点に焦点を無意識で定めていた、ということだ。僕は確かに「生きる」については考えていたが、それにしても答えなんて出ない訳だからその問いを荒々しく奥の方へ閉まっていたつもりだった。だけど僕は選んでいた。とても興味深いと思う。そんな出会いで、僕は、今の「僕」という人間を形成していっているのだから面白いものだ。
僕らの「再会」を促した正体は、なんなのか?
そんな記事を彼女が見てくれていて、こうメッセージが来たのだ。
そしてその言葉に続いて、
僕はこの文章を読んだ時に、自分の文章に対して反応をくれる喜びと新しい問いへのささやかな不安、そして彼女の身体の心配、などの感情が入り混じった何かがやってきた。ただ、そんな彼女と僕はまた会いたいと思った。
痛みの匂い、その人への興味
これも不思議である。
僕は記事を書いた。それを不特定多数の誰かが見た。そしてその中の一人が彼女だった。そして彼女は僕に対して、反応をくれた。そこから僕らは再会することになった。事実を羅列したら、何の造作もないことだ。けど、彼女が反応してくれた。それはどうしてだろうと思ったのだ。彼女には彼女の理由がある。一方、僕はなぜかと考えたときに、僕も生きる、とか、死ぬ、とかそういうことを考えていたこと。それらの「痛み」の匂いを察知して、僕らは再び会うことになったのではないだろうか。僕らは早稲田大学の同期で、ゼミ生であるということだけだったら多分こんな早くに再会することはなかっただろうと僕は思っている。もしかしたら見当違いなのかもしれない。が、僕は痛みの匂いのようなものを嗅ぎ取って、彼女の人間としてのあり方に興味を持ち、会いたいと思った。そんな風に考えていたのだと思う。
旅は道連れ、世は情け
そう思ってすぐに、彼女と会う予定を立てて今日に至った訳だ。なぜ今日なのかというのは、ある会社が主催している旅のイベントに行くことが決まっていたからだ。
というのも、以前僕はこのイベントのプレゼンコンテストに出場していて世界一周航空券を頂いた。未だ世界一周には行っていないのだけど、今年ようやく海外を巡ろうと思っている。僕にとっては人生の転機で あった大会なのだが、本当は今回のイベントには行くつもりは正直なかった。
そういうイベント毎よりも、今は家で読書をしたり、誰かとゆっくり話をしたいという気持ちが高まっているというのもあるし、ひとりで行くのも気が引けていた。ただ僕が以前このイベントに出場していた時にお世話になった人が会社を退職をするらしく、「このイベントが最後のイベントだから来て欲しい」との連絡をくれたので、僕はそれならいってみよう、と重い腰を上げて行くことにした。
でも、その女性と会えると思ったらすぐに僕は東京へ行くことを決め、楽しみになっていたのだから僕はわかりやすい。彼女がどんなことを考え、どう生きることに対して捉えているのかの人間的興味が湧いていたからだと思う。そんなこんなで「一緒に来てくれないか」と彼女を道連れにしようとお願いした訳なのだけど、快くかはわからないが承諾してくれてほっとした。
旅は道連れ、世は情け、な世界観である。
僕と彼女と彼女の上司との不思議な空間
彼女とは練馬区の近くで待ち合わせをしていた。
大幅に遅れたことはここでは省略しようと思っているけど、彼女の寛大さに今回僕はただただ甘えさせてもらった。(他のみんなも助かります。)
到着して、彼女を探していると電話がかかってきた。
全く予想外だけど、こういうのも面白い。何か物語が始まっているような感覚になるので全然OK。僕らは、上司さんを上尾駅まで送ることになる。こうして車の中には、彼女と彼女の上司と僕とがいる不思議な空間になった。
ラジオのような独特なリズムとテンポのある会話
僕はもちろん運転席へ乗り、彼女は助手席へ座り、上司は後部座席に腰を下ろした。以前であれば、執拗に空間にいる人のことを気にかけていたのだけど、今日はあまり気にしていなかった。僕は日に日に変化をしていることを実感する。
彼女と僕はおそらくノンストップで話し続けていた。僕らが互いにADHD気質ということもあるかもしれないが、話続けていた。
ふと、どんな話をしていたのだろうと思ってきた。確か、政治の話や経済の話、僕の気仙沼での話や気仙沼の話、そう今日は3月11日だ、それから彼女の仕事の話からパワハラや宗教の話、あとそう、教育の話や「常識」の話、そしてシェイクスピアや三島由紀夫の話など多岐に渡って広がりを持っていたように思う。そして上司さんともたまに3人で話をするような感じだ。
僕が印象的だったのが、上司さんが
僕はそれを後に考えたのだけど、僕らの会話自体には確かに意味はあったもののそれはさほど重要じゃないようにも思えてきた。きっと上司さんに「僕らの会話の内容って覚えてますか」と聞いたら、覚えているのはせいぜい数%なのではないか。きっと、僕らの会話には流れがあった。会話全体には論理性はおそらくないし、まとまりもない。
そんな空間での僕らの会話は、音楽のようなものではないのだろうか。
僕らの会話には、独特のリズムとテンポがあった。文学でいうなら、文体のようなものだと思う。ストーリーに関してはさほどわからないけど、なんか好きだなあと思うようなことはないだろうか。例えばYoutubeや公演のイベントで対談などで、窮屈にならずに聞いてられる声色やその人々の独特のテンポやリズム・息遣いなどがあって、内容はされど、何だか聞いてられるなあと感じる類のものなのではないか。
いいリズムとテンポを感じて、僕らはPodcastをやることになった
村上春樹のインタビュー集にこんなことが書いてある。
僕は最近この感覚がなんだかわかる気がする。最近僕はnoteを毎日書き続けているのだけど、書く内容はほとんど考えていない。最初の一節を決めて書き始めるとそれに応じて言葉が降ってくるんだ。今がまさにそうである。以前は5W1Hのようなものを書いて、各記事の内容をまとめてから具体的な肉付けをしていくようなことをやろうとしていたのだけど全く書けなかった。
でも今は、特に何も決めずにただ書く・書き始めるということをやったら自然と言葉が降ってくるようになった。
村上春樹もまた、インタビュー集でこんなことも書いている。
僕らの車の会話はまさに村上春樹さんのこれらに通ずるものがあったのではないか。波長のようなものがあっていると、自ずと言葉が降ってくるのではないのだろうかと思ったのである。こういう経験は稀にある。それはまさに、音楽でセッションをしているようなものだ。
いい文章やいい音楽にはいいリズムやテンポがあるのだとしたら、
僕ら会話はいいリズムとテンポの結果なのではないのだろうか。
そんなことを考え、僕らはPodcastをやってみることになったのである。
まだ何も考えていない。難しいことを考えずにやってみるのが一番だ。
この記事をもし読んでくれる人がいたとして、その独特のリズムやテンポとやらに興味を持ってくれた人がいれば、是非告知を楽しみにしておいてほしいです。
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