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余暇の時間の使い方が問われている「今」。経済とは、生きること、即ち藝術だ。 田中慧備忘録 #13

長野で生まれた8時間の余暇。

僕は気仙沼を離れてから約3ヶ月が経った。
3ヶ月間で人の生活というのは大きく変わるものである。環境が変われば、付き合う人も、時間の色も、お金の色も変わるものだ。

まず僕の環境は気仙沼を離れてから、長野でリゾートバイトでお金を稼ぎに行った。派遣先は星野リゾートで、旅館の全般業務を行なっていた。なぜ星野リゾートを選んだかといえば、以前学生の時に約半年間星野リゾートの他施設で働いていた経験があったから業務内容が予測できたからである。

僕は朝勤務であった。朝4:30頃に目を覚まし、朝ごはんを食べる。時間があればYoutubeで朝のストレッチをして、身支度を整える。その後、僕は車のエンジンをかけにいく。僕が住んでいたのは、長野県の大町市という場所で雪が降るときは車が半分くらい積もるのだ。だから僕は車にエンジンをかけ、雪かきを一生懸命する。その後に職場まで車で向かうのだった。そして6:00から仕事がスタートするわけである。15:30~16:00の間に仕事が終わる。その後は僕の自由な時間だ。僕はこの時期はとくに目標などを決めずにいた。だから好きなカフェや喫茶店・図書館などに赴いて当時はとにかく写真家の写真集を読んでいた。家に帰ってもYoutubeで写真についてのことを発信している動画を見ていた。それ以外にも友達と電話をしたり、街歩きをして写真を撮ったりというような生活をしていた。

基本的にはひとりだった。が、なんだかとても居心地が良かったのであった。朝4:30に起床し、22:00には就寝する生活。僕に充てられた労働時間は通勤合わせて約9時間。睡眠時間平均で7時間前後。だとすると、僕には8時間の余暇、つまりその時間を自由にどう使うかを選択できる時間が生まれたということだ。

その時は意識的ではなかったのだが、僕には確かに8時間の自由な時間が生まれていた。それでその時間をどう使うかを意識的に・無意識的に考え、費やしていたことになる。契約社員として、僕は週6勤務で通勤も含めて約9時間働いていた。つまり1ヶ月間(30日間)の720時間のうち、僕は労働に「216h / 月」を割く選択をしたわけだ。その内睡眠時間を平均7時間とっていたので、「210h / 月」を睡眠をとっていた。つまり残りの時間が私の余暇である。僕は240h / 月 の「暇」を何かに充てていたことになる。(暇とは何事か!と起こりそうな人もいるが、便宜上この用語を使っている)

上記でいうと、僕はこの「余暇」の時間に写真活動街の探索飲食や健康活動・友人との電話をいくつかの割合で費やしていたことになる。

これは気仙沼にいた時のことを考えるとほぼあり得ない生活である。だって、夕方の16:00から遅くて朝の3時ごろまでゲストハウスのお客さんと語ったりしていたのだから!

自分の「余暇」を人に費やしていた気仙沼

ゲストハウスでは、人が来るのが当たり前の生活だった。
僕の勤めていたゲストハウスは、市外からのお客さんだけではなくて地元の方や勤務外で遊びに来るゲストハウススタッフなどがいたから基本的に人がいたのだ。お酒を飲みながら、老若男女関係なくゆるく時間を共有し、気づけば目には見えない自分の鎧や錆のようなものが剥がれ落ちていく場所だった。とにかく人が集まってくるし、不思議な場所だった。

だから人がいない時は異様な寂しさを覚えることになる。玄関には大量の靴が並んでいるのが日常であったし、ご近所さんが寝静まる頃に灯りが灯っていた場所だった。そして賑やかな笑い声が聞こえてくるような場所だったのだ。

そんな人との出会いや語らいは僕を安心させたし、様々な生き方や考え方が存在することを知ったと思っていたし、以前は僕にとっては刺激的だったのだ。

そんな「余暇」の時間を半端に費やしていた

一方で、「人と会う」ということを選ぶということは自分の時間を使い道を誰かといることを選んでいるということになる。自分が好きな本を読んだり、好きな音楽を聴いたり、別の大事な人との時間を共有したり、やるべきことや今後のことを考えるなどを選ばすにそれを選んだということだ。

僕は当時悩んでいたし、迷っていた。今でも不安などは多少はあるものの、以前は尋常じゃなかった。ただそれを人といることで一時的な安心感で自分を誤魔化していた。勿論全てがそうだったわけじゃない。

僕はゲストハウスでの出会いは確実に僕を豊かにするためにあった時間だったはずだ。しかし、そんな大切な時間を過ごしている一方で必ずと言っていいほど頭の中に色々な言葉が飛び交っていた。さまざまな自分に向けた問いを暴力的に向けていたが、答えを出さず、未完了のまま頭に残っていた。だから目の前の人との時間を味わうことができたいたかといえば、そうではなかったことが多いだろう。

今振り返ると本当に「半端」だ。強く言えば、機会損失だ。僕はそんな自分を「なんて自分勝手なやつなんだ」みたいな批判と「やってしまった」のような反省タイムに入る。これは気分が落ちる傾向である。そして何もかもが嫌になる。他者から見たらなんて阿呆なんだろうと思うだろう。しかし、当時の僕にとっては切実な課題だったし、宇宙規模の問題であるから自分勝手にならざる終えなかったのだと思う。僕は自分の大切な「余暇」の時間をそんな半端な生活を過ごしていがちだった。(気仙沼を出る終盤は写真展や架け橋卒業などもあり、色々と折り合いがついてきたのだが)

私は「今」を問う、だって過去の積み重ねが「今」なのだから。

気仙沼での「余暇」の時間で僕は、人生の大切なタスク(パートナーのこと、家族との在り方、自分の将来や現在の在り方)などに費やすこともできただろう。興味のある分野の勉強をすることも、新しいことにチャレンジすることもできただろう。家事に時間を割くこともできただろう。スキルアップのための投資をすることも、副業をすることだってできたはずだ。

ただ僕は人との時間を費やすことを選んだ。が、上記で書いた通り僕は「半端」だった。人と費やすことが悪いわけでは決してない。絶対にないと「断言」する。理由は考えるのがだるいので省略する。適当で申し訳ない。

つまりここで反省というか問われているのは、人と時間を共有する時間の密度や態度、費やし方であったと今は思っている。勿論、気仙沼での人と費やした時間があるから今の僕はがあるのだけどね。そう。そういうことだ。

つまり、過去の生活の積み重ねが今の「私」だ。だから現時点の自分を悲観するのは得策ではないわけだ。だって過去の集積が今の自分なのであれば、過去を改竄なんてしたところで何もありゃしない。あるのは少しばかりの安らぎと優越感や偽りの自尊心の類でしかないのだから。別にいいのだ、今は今で。

今の僕のできること、つまり能力などは「今」を受け入れなければいけないと思ってる。僕は無能で、無知だ。僕はそれを受け入れることを出発点にする。

そして、こういう構文が成り立つと思っている。

時間の流れは過去 → 今 → 未来
過去の積み重ね ≒ 今の自分
今の自分    ≒ 未来の自分
未来の自分   ≒ 今の積み重ね
今の積み重ね  ≒ 過去の積み重ね
戻って、
過去の積み重ね ≒ 今の自分
書いてて思いついただけのこと

つまり僕が問われているのは「今」である。「今」「今」「今」なのだ。
今を積み重ねていきましょう、と僕の脳を洗脳しようと思う。

今とは、生活のこと。生活すなわち24時間の使い方だ

ただ「今」の積み重ねとは一体なんなのか?
僕は「今」「生活」と解釈する。
生活を時間の視点で考えると、どうだろう。

生活= 24時間の使い方 = 今(・過去・未来)
ざっくりすぎる

僕は生活の時間を何に費やしているのだろうか?多分こうだ。

生活 (24h) = 睡眠時間(定数) + 労働時間(変数) + 余暇(変数)
ざっくり3つに分けました。

睡眠時間を定数としたのは、個人差はあると思うけど年間のトータルでみると僕は1日の睡眠時間はさほど変わらないのではないのだろうか。僕の場合は7時間の睡眠をとることができたらとても上機嫌だ。だから一旦、睡眠時間を定数に設定した。

生活(24h) = 睡眠時間(7h) + 労働時間(変数) + 余暇(変数)
定数を7時間に設定したぞ!

ここからが問題なのだ。「睡眠時間」は定数である一方で、「労働時間」と「余暇」は変数なのだ。

「え、私会社員でフルタイムだから定数なんですけど」みたいな風に自分は思った。けど僕の場合、正社員→契約社員→フリーターとここ数ヶ月で色々経験しているから定数ではない。僕の意志と環境が労働時間を決定するのだ。

ここでの労働時間をどれくらいにすればいいのだろう、という疑問がたつ。これは人それぞれの状況だから絶対解なんて存在しえない。

僕たちは資本家や資産家、つまりお金でお金を稼ぐことをしない限り労働に時間を割いて対価を得る。その対価がお金というわけだ。僕らはお金によって、様々な商品やサービスを享受している。ただお金は本来価値の尺度だから、お金の先のサービスや商品の価値がいくらなのかを示している。僕らはお金の先にある商品やサービスが必要だから(必要だと思い込んでいるから)、お金を稼いでいる。()については、僕含めてそもそもお金を払わなくても自分できないんだっけという検証をしていないから、お金ありきの前提で必要だと思い込んでいるということを書きたかった。

じゃあ僕らが必要な商品やサービスに一体どれくらい必要であり、それをお金(円)に換算するとどれくらい必要なのかを知る必要性がある。

それにはまず僕の収支を把握する必要がある。そのための問いの設定はこれだ。

今って1ヶ月の間に一体いくらのお金を使ってるんだっけ?
その上で、自分が必要な経費って本当はいくらなんだっけ?
んで、んで、最低限生活するのにいくら必要なんだっけ?
この問いは本当に大切だと悟りました

これでおおよその金額が出るわけである。ちなみに今の僕の生活水準を担保するには12万円稼げば、いいらしい。ここでは経費を出すのを省略する。これは家賃は払っているものの実家暮らしが大きい。交際費5,000円や娯楽費3,000円、書籍代5,000円なども予算に入れてのこれだ。一応暫定なので月毎に精度を高めていく。本なんて買わなくても本来公共インフラである図書館へ行けばいいのだから。ちなみに僕は図書館のヌシ化している。

ちなみに未来の老後とか結婚とか子供とか親とかそういうのは考えていない。そういう強迫観念みたいなものを出発にすると僕は破滅する。いずれ差し迫ることだが、それを見据えての「今」だ。長い目で見なくてはいけない。僕は短絡的・短期的報酬ウハウハ系なので、わかりやすく簡単に手に入る餌には注意が必要だ。ここで大切なのは、「余暇」の時間の拡充だ。そう。それを目的にしている。

僕の余暇の376時間を何に費やすかを問われている

どうやら、僕は12万円分を1ヶ月で稼げばいいらしい。最低限だ。欲深く生きたら破産する。そういう世界だ。クレジットカードや消費者金融はもってのほかだ。僕はこれの餌食で何度も痛い目に遭っているのだけど、こんな未来の自分を縛る=労働時間を増やす ような行為は特別な理由がない限りは避ける方向性でいくのが得策だ。

時給1,000円で日当8,500円の仕事がタイミーなどである。日当5,500円とかでもいいのだけど。そういう単発の仕事で自分のスケジュールを組み立てていく。とりま一旦派遣とかで稼ぐと決めた。それで計算してみよう。

120,000円 (必要最低額) =  1,000円/h   ×  「労働時間」
「労働時間」       = 120h /月

120,000円 (必要最低額) = 日当8,500円  ×  「労働回数」

「労働回数」       = 約14回程度(日当が8,500円の場合)
「交通時間」= 「労働回数」 × 1h/日 
「交通時間」= 14h

労働時間 + 交通時間 = 134h/月
必要な最低限どの労働額だ(給与所得型だけどね!)

これで、現在の仮の労働時間が出た!

1日の「今」の現実時間の使い方
生活(24h) = 睡眠時間(7h)+ 労働時間(9h) + 余暇(8h)
1日の余暇の時間は8h

月のトータルの時間で考えてみた。

月の総時間を考えてみた!
月の時間(720h) = 睡眠時間(210h)+ 労働時間(134h) + 余暇(376h)
月で376hの余暇が生まれた

これが今の僕の現実だ。まず大前提で、労働時間は必要な収支の度合いで決まるから、ここをミスると全てが狂う。欲に負けて、必要以上に何かを貨幣を流すと待っているのは「未来の労働時間が増える」という事実だけだ。

ここで問われているのは、僕の「余暇」の時間の使い方だ。これに尽きる。
ここから出発点だ。僕はこの「余暇」という自分がどう使ってもいい時間をどうデザインするか、どう調理するかが問われている。

そこで色々考えるわけだ。

「未来の自分の現実、つまり時間の使い方はどんな使い方だ?」
「何に自分の命、つまり時間を費やしたいのか?」
「どう生きたいのか?」

経済って身近で、生きるってことそのものだ

これ即ち、「経済」である。どういうことか?

経済:Economicsの語源は、OIKOS と NOMOSの古代ギリシア語からきている。その2つはなんなのか?

OIKOS    :家計、住む場所、関係を持つ場所を意味する
NOMOS :習慣、法律、社会的道徳、古代ギリシアの行政区画のこと
NOMOSはOIKOSのあり方を示している最小単位とも言える。
坂口恭平「独立国家のつくり方」p102

つまりこの経済の語源から遡って考えると、

経済とは、
「家計をどうやりくりするのか」「住まいとはどういうものか」僕が住むこの共同体(例えば、家族や恋人、友人や地域社会、大きく言えば国家やグローバル)はどうあるべきか(道徳や法)」を考え、実践する行為のことである。
坂口恭平「独立国家のつくり方」p102

僕はこれ「生きる」ということそのものじゃんって思った。
しかもね「どう生きるのか」を考えることも経済じゃんって思ったのです。
(経済が身近に感じた瞬間です!)

だから、僕の生きるすべての活動は「経済」なのかもしれない。
そして「どう生きるか・生きたいのか」については未来や今に対する希望や願いだと思っている。

僕はこの「未来や今に対する希望や願い」に余暇の376時間を充てたいと思うようになった。この時間を僕がどんな風に使うかが「今」問われているわけだ。

経済って、生きること。生きることって、藝術なのかも?

そして面白い気づきがあった。
この経済活動=生きるということは、「藝術」なのだということだ!

「藝術:Art」もこれまた語源から遡って考えた。

artはラテン語のアルスars、ギリシア語のテクネーtechnに由来し、「学問」と「技術」の二つの意味を内包していた。漢語「藝術」は「後漢書 孝安帝紀」に用いられ、「学問と「技芸」をさしていた。
社会が変われば定義も変わる【芸術・美術・アート】

僕らの身近な「藝術」は明治時代から輸入されてきた「美術」であるファインアートだ。藝術の核は、「学問」と「技術」らしい。学問については、易経を参照してみると

君子は学もってこれを聚(あつ)め、問もってこれを辯(わか)ち、寛もってこれに居り、仁もってこれを行なう。 「学問」という言葉の語源。 「これ」とは「徳」のことである。 学ぶことによって徳を身に付け、問うことによって是非を分別し、寛大な心で身を処して、思いやりで実践する
易経 「文言伝」

これって生きる過程で行われる過程だよなって思ったのよ。
「問い、学び、試し、経験し、考え、また問い…」って「生きる」ことそのものだ。もちろん色々と問いや疑問も浮かぶけど、そう仮定しよう。その学んだことや頭の中にあるイメージやアイデアを創造すること、生み出すことができることが「技術」だって。

それで僕の中で、
経済活動=藝術=生き延びるための技術、あるいは創造する技術
持論、論理性がないけどw

じゃねってバカだけど思った。それで僕が今こうしていることはある意味で芸術の一端なのかもしれない、と。僕は生きるという経済活動の中での沢山学んで、問うて、試していく中で創造する力を、生き延びるための技術を身につけたいと思いました。

僕はこの1年間世界を巡る過程でもそうだけど、この余暇の時間の費やし方をとにかく大切にすると決めた。僕は今日何を書いているんだろう。時計を見たら2時間執筆してしまった。だけど、書きたかったから書いた。

さあ、自分の生活を見直そう。僕はどう生きたいんだ?



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