■【より道‐94】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「南北朝合一」
南北朝問題は、1272年(文永九年)に後嵯峨天皇が、治天の君(ちてんのきみ)を定めずに崩御したことで、持明院統(北朝)の血脈と大覚寺統(南朝)の血脈の間に確執が生まれたことがそもそもの原因でした。
その後、後醍醐天皇が1333年(元弘三年)に「元弘の乱」を起こしたことで、京都に北の朝廷が、奈良吉野に南の朝廷が誕生しました。
その後、南北朝の争いは、それぞれを支持する公家や武家たちの争いが続き、日の本は勢力が二分される時代が続きましたが、第三代将軍・足利義満が、1392年(明徳三年)に「明徳の和約」を結んで南北朝の問題が解決されたことになっています。
しかし、この「明徳の和約」は、室町幕府・北朝側が約束を反故したので、南朝の子孫や反幕勢力の遺臣らによって「後南朝」が1476年(応仁元年)「応仁の乱」の頃まで活動していたようなので、厳密には解決のキッカケをつくったというところでしょうか。
とはいえ、南北朝問題解決につながった、「明徳の和約」をどのように足利義満が成し遂げたのか、今までの振り返り含め記してみたいと思います。
■第三代将軍・足利義満
当時10歳の若さで征夷大将軍となった足利義満は、管領、細川頼之に支えられながら、足利一門の家臣たちから帝王学を学び成長していきました。
敵対する南朝はというと、九州全域に勢力を広げていたため、今川貞世(了俊)と大内義弘に九州平定を命じ南朝勢力の弱体化を目指しました。
しかし、育ての親である細川頼之は、「観応の擾乱」で南朝側に寝返った斯波高経や山名師義。そして、足利尊氏の時代から幕政を支えた宿老・土岐頼康などと、政事で対立をして、細川頼之を追放する「康暦の政変」が起きました。1379年(康暦元年)足利義満20歳の出来事です。
足利義満の育ての親である、細川頼之は四国に追放されてしまい、後任の管領に斯波義将が就くと、足利義満は、政務の実権を握られることに危機感をもち、自らの政治的影響力を高めていきました。
そして、8年後の1387年(嘉慶元年)に土岐頼康が70歳の高齢で亡くなると、足利義満は、土岐氏の息子たちの不仲を利用して「土岐康之の乱」を起こさました。
とき同じくして山名一族の惣領、山名時義も亡くなったことを好機ととらえ、日の本66ヶ国のうち、11ヶ国の守護領国を誇っていた山名一族の内部分裂を謀ります。
そして1391年(明徳二年)に「明徳の乱」を起こさせ、山名一族を弱体化させることに成功しました。
奇しくも「康暦の政変」で煮え湯を飲まされた土岐氏、山名氏への仕返しが成就したのでした。
■外様大名・大内義弘
足利義満が信頼する家臣に、周防・長門などを領する大内義弘がいました。大内義弘は、今川貞世(了俊)と共に、九州平定に尽力したり、倭寇勢力を制するなどの活躍をしていました。
一方、「康暦の政変」で斯波義将の圧力に屈したためとはいえ、育ての親である細川頼之を追放してしまったことを、悔やんでいた足利義満は、細川頼之との関係を修復すべく厳島神社で参詣をおこない、その旅の途中に細川頼之との対面を果たします。この時に随行したのが、大内義弘です。
また、足利義満が厳島から帰京した二ヶ月後、山名時義が没しました。足利義満が山名満幸と|山名氏清に命じて山名一族の内部分裂を謀り発展した「明徳の乱」で活躍したのも大内義弘でした。
「明徳の乱」で山名一族が弱体すると、南朝と領地を接する大内義弘が南朝との本格的交渉を開始することなねなりました。
■南北朝合一
南朝側からすると、九州で一大勢力を広げていた、後醍醐天皇の息子、兼良親王が、九州探題の今川貞世(了俊)や大内義弘に追いやられ、南朝の武将、楠木正勝の河内千早城が敗れ陥落すると南朝を支持する武士団が潰走していました。
また、「観応の擾乱」で南朝側に寝返り、日の本11ヶ国を制していた、頼みの綱であった山名一族までが「明徳の乱」で衰退したことで、和睦に応じることにしました。
この時に3つの条件で「明徳の和約」を結びます。その内容は以下の通りです。
結局は、室町幕府と北朝はこの約束を破り、皇位は北朝側が継ぎ続けます。南朝側はこの対応に反発するも時すでに遅し。弱体化してしまった、南朝側の一族たちは、後南朝を称するもほとんどの勢力を失ってしまいました。
足利義満が現代の人たちに人気がないのは、露骨な謀事が伝わっているからでしょうか。それとも、天皇一族を貶めたからでしょうか。天下人というのは、人から嫌われるものですね。
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