ファンアートに着手した
先日、村上隆氏のインタビュー記事を読んでいた際に「花と骸骨は生と死を表している。村上隆のメメントモリである。」という文章に目を引かれた。
メメントモリというのはラテン語で
「自分がいつか死ぬことを忘れるな」「死を想え」というような意味で、つまり 生きながら死を想う、個々人の死生観を問いかける ようなものだと解釈している。
それ以来、「では私のメメントモリはどんなものだろうか」と考えるようになった。
死生観として強く出るのはやはり1番は宗教だろう。 私の家系は一応 浄土真宗らしく、祖父母はそこそこに信心があった。しかし両親はそうでもなく、もれなく私も大人になってからようやくその事を知った程度のものだった。
要するに、私には 死生観の教科書が無かった。
確たる指針となるものを持っていない。
そんな状態でどうにか自分のメメントモリを探そうと考え始めたけれど、拠り所が無くなかなか考えがまとまらなかった。
死ぬとは何か、生きるとは何か、死んだらどうなるのか。
そういうものを頼るものなく自分のみで確定させる作業は、何も無いところに自分自身で1つの宗教を作り上げるようなもので非常に苦労していた。
それで辿り着いたのが【ファンアート】だった。
生きること、死ぬことを考えた時に、
【ファンアート】というジャンルに強く関心を持った。
私の大きな制作テーマのひとつに「立場の表明」というものがある。
人は立場を表明した時に、強く光を浴び、その下には濃い影が落ちる。その瞬間から誰かを傷つけ、誰かに傷つけられその場所を陣取ることになる。
良くも悪くも、それは“社会”の中で「自分を存在させる」唯一の行為である。
そして【ファンアート】は立場の表明のひとつではないか、と思い至った。
私はこれが好きだ。私はこの考えに賛同している。私はこの派閥に属している。
そういうものを、手間をかけ時間をかけ渾身の力で表明する行為がファンアートだ。
言い換えれば 「私はこれで生きている」という発信だと思う。
そのような考えに至り、現代社会においての「私のメメントモリ」の大きな取っ掛りとして【ファンアート】を考えるようになった。
では、私は何のファンなのか?という事が次の議題になる。
私は好きなものが少ない人間で、尚且つ好きな気持ちが長続きしない人間だ。
なので色々なことにハマって、好きだ好きだと騒いではひと月程後には大人しくなってるなんて事が多々ある。
それでも人生の中で、昔から長年変わらない熱量で好きでいられているものが芸術と音楽だった。
芸術は死ぬことに優しくて、
音楽は生きることに優しい。
と、私は思っている。
それらをバランスよく摂取して、私は今日まで生き抜いてこれた。
それこそが私にとってのメメントモリに他ならない。私は芸術と音楽の狭間を綱渡りして、両側をグラグラ覗き込みながら今日までを歩いてきたのだ。
それでようやく「音楽というものへのファンアートを、芸術で表現する」ことこそが、私のメメントモリである。
という回答に至った。
そうして私は、ファンアートに着手した。
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