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余計なものを控えるけど、余計にかまっている

この情報社会、毎日処理しきれない量の情報が入ってきます。江戸時代の方が一生かけて消費する量を、私たちは1日未満だかで消費、もしくは浴びているそう(たしか)。
ようは、ありえないくらいの情報に晒されているということ。

だからこそ、わたしたちは、情報を取捨選択しなければいけません。
自分の興味・関心がないことに時間やお金、労力を割いている暇なんてありません。好きなことに一括投資するしかないんです。

はずなんですが、余計な情報に時間を費やしているのではないでしょうか。

代表的なテレビのニュースをはじめ、Twitterのトレンドや芸能人のいざこざ関係。それらにあーだこーだつぶやきつつ、時間を消費、もとい「浪費」していませんか。
そんなことを知ったところで、自分の人生にいい影響なんてありません。まさしく、余計なもの。

現実としては、「余計なもの」を控えようとすれば、自分の好きなものに触れる機械を失うことにもなります。
最新情報が発表されるのは、TwitterやYouTubeといった各種SNS。自然と余計なものを目にする機会に恵まれます。
一度気になったが最後。ついつい眺めてしまって、「アレ?なにしてんだっけ?」と記憶喪失。

また、「余計なもの」を少し違った見方で考えてみます。

最近は、YouTubeや映画といった動画を2倍速で観るのが普及し、本の要約動画が台頭してきています。
その背景には、ちゃっちゃか要点を押さえて、どんどん消費したい動機があるのです。音楽も、イントロが長い楽曲は、避けられる傾向があるみたい。

動画を等倍で観ることも、本を読むことも、イントロを楽しむことも、すべては本編をより味わうための「余計なもの」です。
ゆっくりと時間をかけて味わうことで、そのコンテンツが内包している価値を見出しているのです。

料理でたとえると、いきなりステーキ(※ 実在するお店とは一切関係ないです)を出されるもの。しかもそれが、エンドレスに続くのです。
胃がもたれるし、飽きるし、食べて続けているとステーキの味が分からなくなります。
前菜とかスープとかがあることで、メインの料理が美味しく感じられます。サブがあってのメインで、メイン単体では、本来の価値が霞みます。

これが「余計なもの」の難しいところであり、それぞれの嗜好が反映されます。
ぼくは、YouTubeは倍速で観ますが、映画やアニメは等倍。要約動画も観つつ、本も読む。
Twitterは、基本好きな絵師さんやゲームをフォローして、タイムラインしか見ない(たまにトレンドを見る程度)。

余計なものとうまく付き合うために、余計な手間をかけないといけないのは、なんとも歯がゆいところ。

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