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鏡像段階から見る「雨の中、木の麓、傘の下、闇の真中」

以前書いた記事を見返してみると、あぁこれはこのことなのかもしれないなと感じることがちょくちょく。この「雨の中、木の麓、傘の下、闇の真中」も、その一例で、これはたしか「私」という性質をよく理解していなかった時に感じたことを書いた「私の環境依存性」の記事だ。

依然何処かで書いたのだけれど、私という意識は、私が二人いないと現れない。外部に意識を向けると、私は消えている。あるとしても、生温かい水溜りからかき集められたたんぱく質の鎖の寄せ集めに過ぎない。つまり身体だけってこった。

注目したいのは、この部分。ラカンの鏡像段階を通して考えてみれば、色々見えてくることがある。

真夜中の(といっても午後十時か)、寒々しい雨夜には、ワタシ意外に誰もいない。鏡像段階でいう、「鏡」が見当たらない。鏡像段階は生後すぐから一年と数か月の間で形成される自我についての理論だけれど、周りに誰もいない状況で、ただぼうっとしていると消えていく自分にも、なんだか当てはまる気がする。

ただ、「私」とは他者との差異によってしか生じない、ということを多分その時は言いたかったのだろう。同一化の集積体である「自己」は、例え「自己」がある程度確立した後であっても、同一化、いや差異化(比較)する対象が無いと、「自己」を見失ってしまうような気がしてならない。

あの雨夜には、ほんの一瞬だけかもしれないが、誰一人として人間がいなかった。雨の声と、風のさざめきと、雨が垂れる音に、自販機がウーンと唸っている。

独り言、思考、誰かへの意識と比較を辞めれば、途端に誰もいなくなる。ワタシの中にいる一人か二人を含めて、誰もいなくなる。暗闇が、ない空間を、ただ「ある」で埋め尽くしてしまう。そこにワタシという存在者は、内へと閉じている。誰にも向けられていない。どこにも向いていない。どこにも開かれていない。

でも、たまには則天去私するのもいいもんですぜよ?。



今日も大学生は惟っている。



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