見出し画像

対自化的即自化の何方つかず

何かを目指すこと。それはある種の現在の自分自身の否定のようにも思える。殻を破り、新たな自分へと変化する。それは自分から脱却し、しかしながら再び自分へと戻って来るということでもある。とはいうものの、前者の自分と後者の自分が同じであるというわけではなく、むしろ全くの別物であると考えることも出来るだろう。時間に影響されずにある、「自分である」という意識は、信用していいものなのか。

宙づり、とも言える。

何かを目指すという意味で、未来の、或いは可能性としての「自分」に向き合おうとするのは、その自分に没入しつつあるということだととも思う。だが、それは先ほども書いたように、否定という思いを持ちながらも、肯定という側面も内包している。

全面的に信頼を寄せることが出来るもの。それは否定と肯定が混ざり合うような自分ではない。どちらでもあるということは、どちらでもないということでもある気がするから。自分という存在に向き合うと、途端に思考停止を阻止される。自分は誰か。
自分は誰でないのか。
昔の自分は誰か。
未来の自分は誰か。
もう一人自分が存在するとして、どちらがホンモノの自分か。
一秒後の自分は、「自分」なのか否か。
何者になれるのか。
何者になって、どうするのか。
他者から自分がどのように映るのか。


延々と続く。これから逃れるためには、寝るか、思考を停止するほかない気さえする。

自分を意識した瞬間に、完全な「自分」はおそらく死んでいる。自分だと意識する前の自分は、存在してはいないけれど、けどその意味においてより一層、客観視されるような「自分」に比べれば、非常に安定している。自分とは何者かと問うた瞬間に、可能性の代償として、自分の(不可視)の安定性が消えてしまうのではないか。

何者にもなれる。それは裏を返せば、確固たる自分など、どこにもいないということだ。あらゆる関係性。あらゆる環境。そのいずれにも没入することなく、常に流動的な存在としての「自分」が立ち現れるのではと。留まることも、明確になることもない。一瞬一瞬がただ繰り返される。自分は何者かと疑問に思っている時点で、もう「固定的な誰か」になることあり得ない。脆弱な何かに、自分自身を措定する根拠を求めるほかなくなる。

将来はどうするの? 夢? 進路は? 希望は? 職業は? やりたいことは? なにが欲しいのか? 思えば中学生くらいの頃から、こんなことを延々と延々と質問されてきたような気がする。その度に、それっぽいものを見繕った。案外関心して聞いてくれたから、それでいいかと思ったが、それは結局今勉強したり、経験していることと直接的につながっているわけではない。むしろ、反対かもしれない。常に未来を、先を見ていて、今が見えていない。今が幸せで何が悪い、それは確かに一理あることだと、思うようになった。未来の為に、今を犠牲にしすぎてはいけない。

それで終局手に入れた「未来」で、またその先の大未来を気にかけ続けるなら、ワタシはどこに生きているのだろう。頼るものも、何も無い。明日死ぬかもしれないという蓋然性を考慮せず、或いは考慮しすぎて、今を軽視する。未来という意識に引っ張られている。


お金をためて、どうすんの。

そうだねぇ、ひっそりとしたどこかで、誰かとミニチュアの木々を眺めて、寝たい時に寝ることかな。

じゃあ、今やればいいじゃない

って、その論理が通じない、通じ得ないこともまた不思議である。





今日も大学生は惟っている



🔵メインブログ🔵

サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。