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ぼぉーッと生きさせられてんじゃねーよ

チコちゃんに叱られるという番組で、「ぼぉーと生きてんじゃねーよ」という文言を耳にしたこともあるかもしれないが、あれはワタシにしてみれば、「ぼぉーッと生きさせられてんじゃねーよ」という風にも聞こえる。ぼぉーとしてても生きていけるということを批判されているということは、「生きる」という行動に対する行き過ぎた受動性に対して指をさされているとも思ったからだ。

「生きる」という行動に対する受動性を拡大解釈すれば、生きているどころか、ワタシは生きさせられているのではないかとも思った。何にも疑問を持たない。当たり前のことを当たり前だと見なす。変化に気づかない。遡及的に推理することも、好奇心を持つこともない。その姿勢に、チコちゃんが激を飛ばす。

生きている、とはどういうことか。さんまさんが司会の、「ホンマでっか!TV」で、誰かが言っていたような気がするが、ただ働いて、飯食って糞して眠ることが、生きているなんて言えるのかという意見もあるのだぁなと学んだ。それは、想定外に遭遇したり、哲学書を繙いたり、人生そのものに問を投げることが「生きている」ことであり、そうでないものは「生きていない」という二項対立的思考なので、常に採用できる意見ではないけれど、まぁ参考にはしようかと思う。それに、「ただ働いて、飯食って糞して眠ること」だって、ワタシには立派に生きていることだと思える。社会は、色んな人の働きかけによって、成り立っているのだから。上述の様な生き方をしている人がいないにしても(想像だったとしても)、その生き方を否定することは出来ない。

ただ、何ものにも疑問を持たないというのは、やはりいささか疑問に思う。生きていることは確か立派であるが、その営みが受動的な要素に埋め尽くされることが、危ないのではないか? と考えるということだ。生活の為とはいえ、金を稼ぐために生きる。日本の社会は、金さえあれば大抵のものは手に入るから、金さえあればというのは、あながち間違いとは言い切れない。しかし、その「金」によって手に入れるものを、代わりに生産してもらっているという点で、ある人間は受動的とも形容できるのではないかと。コンビニで、おいしい(?)ご飯が買える。スマホがあれば、想像以上にたくさんの雑事や、暇つぶしや、或いはクリエイティブ(?)なことまで出来る。家も、自分で作る必要もない。ブログも、自分で構築することもない。大体のものは、既に「出来合い」なのだ。動物の死体を実際に目にすることもなく、死んでいく人もいるかもしれない。

「観光」にも目を向けてみよう。余暇活動、あまりの、休暇活動の時間がビジネスの対象になる。パッケージツアーという名前が表すように、旅や旅行は、観光という商品になる。遊びや、息抜きですら、「出来合い」のもので、誰かが造ったもので、何かをしているだけかもということも十分あり得るのが、現代だと思う。もちろん、この「note」も、土台としては「出来合い」のものだろう。誰かが造ったものの上で、多様性が生み出される(それは多様性か? 真の多様性とは何か?)。

そういう、出来合いの社会のなかで、改めてチコちゃんの言葉(ワタシの言いかえた奴だけど)は、忘れないでいたい。でも、出来合いの社会で暮らしている人間を否定したいわけではないということは言っておこう(ワタシを育ててくれた親の事も、否定してしまうことにもなってしまうかもしれないから。というか、特別なことをしなくても、人生に疑問を持つことは無くても、生きていると云うこと自体とても大変なことだし、偶然消えていないシャボン玉のような宇宙で今存在しているということもまた、まぁまぁの奇跡だとも思うからね)。

では改めて、「ぼぉーッと生きてんじゃねーよ(ぼぉーッと生きさせられてんじゃねーよ)」という現状批判の本質は何だろうか。それはワタシが思うに、極度にシステム化・効率化するものの中に置かれる人間と、人間の生活、トマス・モアの「ユートピア」が、ディストピア的性格を持ち合わせているということに似た状況(作品内では真っ先に「性」が管理対象と化している)、非合理をとことん排除することを問い直すことだと思う。否定ではない。あくまでも、問うてるだけ。ですが、無碍にしていいというわけではない。残り少ない大学生活、というわけではないけれど、大学4年間何してたんだよと言われないくらいには、これに似た姿勢をしんと懐いていたい。




今日も大学生は惟っている




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