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盗作-ヨルシカに、屋上屋を重ねる

まことに勝手なことを書いていきます。「盗作」というヨルシカさんの作品を聴いている時に、ふと感じたことです。結局、ヴァルターベンヤミンの指摘するような、「展示的価値」というよりも、個人の赴くままというか、どこまでも個人主義的で、排斥的な欲望なのだと思います。音楽は、社会を反映する鏡であると、どこかで聞いたことがあります。ならば、この「盗作」もまた、今の社会のどこかの部分を写している鏡なのでないでしょうか。

「展示的価値」が終わりを迎えるなら、次はどうなるのでしょう。マスからどう見えるか。どのような評価が下るか。どれほど売れるか。どれほど批判されるか。ということではなく、己が欲望や世界を広げていくための、ある種のコミュニケーション手段となるでしょうか。音楽それ自体が、こう壁にピタッと張り付いて、その後ろが見えない、一方的なものというよりかは、大ぜいに囲まれて、しかも彼らは移動していて、その流れの中の、非常に不安定なものとして、「盗作」は、ちょっち未来を見ているのではないかと。

屋上屋を重ねるようなである事はわかっています。ただちょっと思っただけ。音楽、作品、ないしは表現の価値とはなんなのでしょうか。それが売れることか。自分が満足することか。高評価を得ることか。バズることか。「美しい夜を知りたい」と”言って”、「盗作」は、幕を閉じます。「美しい」ものとはなんでしょう。人間の最高の価値としての、イデアや、純粋形相のようなものでしょうか。でもこれは、なんとなく違う気がします。自分が満たされるためには、自分に合ったものが必要です。ということは、自分にしか作り出せないもの。おそらくは、自分の見る世界の拡張と、いったところでしょうか。表現のこれからの価値、いや正確に言えば、メルロポンティの(反)哲学に近いものかもしれませんが、自分自身にとって、可能性を拡張するものではないのでしょうか。

結局、周りから評価されなくなった時に残るのは、この自分と言う肉体と、その能力だけでしょう。評価されないから、能力がないと断ずるのは、短見を患っているのでないでしょうか。確かに、表現するということ自体、能力があるということなのです。その表現が生まれた後のごたごたや、他人の評価は、もう意味がないのかもしれない。ただ、「美しい夜」とは、自分にとっての「美しい夜」でしょうか。そうだと思います。「夜」は、空模様です。晴れの日には、月が目に浮かびます。夜に浮かぶ月と、独りぼっちの「私」との閉じた関係。個人主義的で、不安定で、排斥的なコミュニケーション。今その夜を見ている、なにか表現が出来たその僅かの瞬間だけに、価値があるのかもしれません。

録音技術が発達しきったように見える今、音楽は情報化を完全に遂げたともいえます。いつでも聞ける。ライブの音楽が頼りなく聞こえるくらいに、録音のデータの音質は素晴らしく、”ノイズ”が入っていません。けど「盗作」で浮かんできたのは、そういう録音の音楽の価値ではない気がします。いつでも聞けるのではない、不安定で、即時的で、improvisation的な。不安定だからこそ、情報やデータという扱いが簡単なものではないからこそ、その一瞬のアウラを、誰にも知られない名もなき英雄のような価値みたいなものを、求めているのかもしれません。

交換の彼方に考えられ得る最後の系。音楽は、そこで作曲、即ち音楽家の享受、根本的にすべての交通の外にあり、自分自身の悦び以外の目的を持たぬ行為、自分自身とのコミュニケーション、自己超越、孤独で個人主義的な、それ故非商業的な行為(ジャック・アタリ、2012、57)

音楽を含む表現の行き先。それがただ自分自身と向かい合うことに、終始することだとしたら、音楽の金銭的(資本を生み出す)な価値や、名声や、記号消費について、どのような変化が起こるのでしょう。ヨルシカ(n-bunaさん)は、その答えのようなものを、どこかで、見据えている或いは、もう見つけているのかもしれません。




今日も大学生は惟っている


引用文献

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房




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