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敬語の半壊とゲゼルシャフト

『人に聞けない 大人の言葉づかい」という本を繙いていた時、

興味深い文章を目にした。

戦後、敬語がほとんど半壊の状態になったのは、人と人との付き合いが、殺伐、無味、利益の結びつきになったことの象徴である。〔中略〕企業に就職した若い人が、ひそかに買いもとめるのは、敬語の使い方を教える本だと言われている。家庭や学校、ことに、家庭は、その話をきいて恥じなくてはならない。(外山滋比古、2008、160-161)

引用文にある

「人と人との付き合いが、殺伐、無味、利益の結びつきになった」

という文章は

テンニースという社会学者の文言を借りれば

「ゲゼルシャフト」という空間だと思われる。

前近代の地縁的な繋がりを持っていた共同体(家族の延長みたいなもの)とは異なり、

近代になって登場した都市空間において

利益を求めたりなど、親密空間とはまた異なる性質を持つ空間のこと。

そこに家族のような

ゆったりとした雰囲気は見受けられない。


では、「ゲゼルシャフト」という空間は何を意味するか?

これは

「労働」と「生活」の場が分離してしまったという事態だ。

今でこそ可笑しな事態ではないが、人々は生活の場から、労働する場へと向っていく。

「仕事場・事務所」と「家」が分離しているという状況は、非常に特殊なのだ。

(テレワークは、この視点を考慮して見てみると、新しいものではなく、むしろ昔に逆戻りしたものだと見なすことが出来るかもしれない・・・)

さて

労働の場と、生活の場が分離したことによって、どのように敬語の半壊につながるのか?

これは引用にある「若者・子ども」を例にすると解り易いだろう。


子どもは成人したり、就職したりするまで、「生活の場」を離れることが多くはない。

つまり、労働の場との関りが少ないということになる。

他人との円滑なコミュニケーションが求められる「労働の場」では、敬語や大人としての言葉遣いが要求される。

つまり、

「生活の場」と「労働の場」が離れているということは、若者や子供達は敬語や大人の言葉遣いに間接的にでも触れることが無くなり、

緊張感を伴った空間、敬語というものがどういったものかを、

肌身で感じることが圧倒的に少なくなる。

ということは、敬語の半壊という状態につながるということだろう。


いちおうイメージを描いておきます!

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そういうわけで

若者は、就職したことを契機に、「敬語の使い方」という類の本を手にすることになるのだろう。


今の若者は、碌に自分の国の言葉の敬語の用法も知らない、のかもしれない。大人もそのようであったら、非常に残念だけれども。


このように敬語の使い方、というか人間関係を円滑に営んでいくために最低限必要な敬語の使い方もしらない若者・子どもや彼らの親が、

英語の能力を過度に重視しているのは、筆舌に尽くしがたいほど残念だ。

そして

外国語には敬語というものがないと思いこんでいるとしたら、その上で子供に英語を勉強させているとしたら、本当に間抜けだと思ってしまう。


とつらつらと書いてきたが、今の日本に子供たちに敬語を教えることのできる余裕と能が国にあるかどうかは、少々疑問に思えるけどね。



今日も大学生は惟っている。


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引用文献

外山滋比古. (2008). 人に聞けない 大人の言葉づかい. 中径の文庫


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