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今日も、「パスタ...」じゃありません

「ペスタロッチー」という言葉をキーボードで打とうとする。こういう固有名詞をキーボードを使って打つたびに、ワタシは今日も予測の少し外側に行けたのだと思う。本を読んでいると、それはまぁ色んな人の名前が出てくるし。少し分野の違う本を繙くだけで、こんなにも色んな人が、真剣に考え行動をしたのだと、痛感せざるを得ない。

自分から探しに行ったというか、自然と文脈の中で出てきた人物名は何故か覚えていられる気がする。名前とその人の特徴が一致していなくても、ホワーと頭に残っていることが多い。高校生や中学生の時に詰め込んだ暗記の対象としての名前たちは、ほとんど忘れているような。

こちらが想定していないような変換を、コンピューター側が行うと、その瞬間だけ、ワタシはその予測から逸脱することが出来たのだと思う。この人の常日頃の検索パターンや、言葉の使い方のパターンから、或いは一般的にはこうだからという想定から逸れる。「ペスタロッチー」と打とうとして、「ぺスタ」と打つと、「パスタ」と出てきた瞬間、このコンピュータは、ワタシが教育実践者に興味を持ったということなんて知る由もないのだろなと、勝手にこちらも推測する。

「その生活をしていてなぜそのようなことを知っている?」といった事を知っていることは、もはや不思議ではない。宮崎県で有名な「菜豆腐」について調べることが出来るし、香港の油麻地(Yau Ma Tei)のダークツーリズムについて検索することだって出来る。だから今日も、「こいつならこういう言葉を使うだろう」「こいつならこのことについて調べるだろう」「こいつはこのことにしか興味ないだろう」という実に勝手な推測をぶち壊していく。閉塞感のある日常における、ささやかな反逆だろうか。

歴史は、一本の道ではないのだと思う。ただ授業を受けて得た知識だけが、全てではないように。数え切れない線が、色んな方向を向いて、交差して。多少乱暴なこともあるだろうが、「こいつならこうだろ」という安直で思慮の欠いた推測に絡めとられないようにするためにも、「パスタ」ではなく、「ペスタロッチー」を調べ続ける。「シラス」ではなく、「白洲正子」を調べる。それを続けていくと、思いもしなかったことにたどり着くかもしれない。けど、どこかに共通点があるかもしれない。物理的に動き回ることの出来ない今、ワタシは思想や概念の意図しないつながりにおいて、縦横無尽に駆け回りたい。常に同じ人ではなく、時には全然関係の無い様に思える人を。嫌いとか、好きとかもあるかもしれないけれど、二項対立的な判断にすぐに落とし込むのではなく、自分が思いもしなかった思想へ。

ある程度自分の土台を作ることも大事かなと思うので、基本的な考え方などを繰り返し読んだり、実践することもいいが、そこから誰かが予測できない方向へ逸脱してみるのも、自分の新たな欲望を生み出したり、刺激してくれるという点で、結構楽しいものかなと思う。ちなみに一番簡単な逸脱の方法は、外国語を使って調べることかな。




今日も大学生は惟っている




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