泉光院的な観光?と精神的インフラ

2020年の年末の今は、観光なんてとても出来る状況ではない。特に日本では、「世間」というそれは大きな大きな大きなかぶのような構造的阻害要因のため、いや、これ以上医療従事者の負担を増やさないことに少しでも(消極的な形だが)寄与するために、旅行の類は不可能であるというか、もともとインドアだからそんなに行かないからあまり関係なんだけど。

これはひょいと耳に入れたことだが、観光業が2019のレベルまでに回復するには、3~4年ほど必要らしい。ワタシの予想としては、もっとかかりそうだけど。おぉ!こうなると、ワタシはある意味で、今社会において最も必要の無い事を学んでいるのではあ~りませんか!とも思ったが、そのような短絡的思考こそ流石に笑えない。まぁ、こんなことを言っているうちが、華なのだろうね。

さて「旅の根源史」という本を読んでいる時に、今では決して見られないような観光というか旅行のスタイルを垣間見た。専攻(?)の学びの為に、この旅についての歴史の本を読んでいる時、泉光院(本名は野田成亮(のだしげすけ))という修険者の旅行様式が興味深い中と感じたので、紹介しつつ、現代との(主観的な)観光観との違いについて述べていきたいと思う。


長期間にわたり旅行できたのは、泉光院が何よりも修険者であったからである。泉光院は旅行について必要な金銭と食料を托鉢によって調達できた。神社への信仰が人々のに広く生き渡り、宗教者をもてなすことは信仰心にもなった社会的な精神的インフラが広く普及した。〔中略〕参勤交代などの街道筋から離れた農村ではとくに新しい情報に飢えていたのである。このように泉光院が備えていた教養や武芸もまたかれの旅を可能にした条件であった。(田村正紀、2013、197-198)

泉光院は、18世紀前半の江戸後期、元禄期から享保期に入ったくらいの時期の、旅人であると言われている。彼の旅の特徴は、金銭と食料を自ら持ち合わせていなかったにもかかわらず、旅を行うことが出来たことだろう。それは、彼の修険者としての頑強さというか、頑健さというか、彼自身の能力に限らず、それを可能にしていた社会的な状況にあるのだろう。

引用文の中で最も注目したいのは、「精神的インフラ」というものである。これが無ければ、たとえ泉光院がどれだけその能力において優れていようと、旅が成されることはなかったのではないか。宗教が流布していること、その宗教の影響によって、旅人をもてなし、助けることが人々にとって拒否されるようなことでなかったことは、泉光院の旅にとって、非常に重要な役割を果たしていたのでないだろうか。

またこれに続いて、「旅人」「旅行者」の役割ついて注目したい。引用文から、泉光院という旅人は、一種の情報メディアとして機能していたということが読み取れるのではないだろうか。これは、現代においても、或いは古代に近い時代(奈良~平安)にも、(全くでは無いが)なかなか見受けることの出来ない、旅人の特徴であると推測する。

泉光院という旅人が行う旅は、能動的な要素と、受動的な要素がうまく混ざり合ったようなものではないだろうか。いや彼の場合、奥地への旅を行ったので、少々能動的な要素が強いかもしれない。いずれにせよ、彼の行った観光は、なかなか見ることは無い。奥地へ赴き、托鉢で旅に必要なものを即興で揃え、自らが奥地に住む人たちに、新しい情報を与えるという、ある意味では非常にタフな代物だろう。

さて、これを現代の観光の特徴と比較してみよう。現代においては、旅或いは観光は徐々にその境界線が曖昧になってきているのではないだろうか。これは、山田真茂留の「非日常性の社会学」にある、

「日常生活それ自体の有する社会的圧力は、かつてないほど強いものとして人々の上にのしかかってくる。」(山田真茂留、2010、122)

という記述からも読み捉えることが出来る。日常的な「観光」と、非日常に近い「旅」が、その軌を一にしようとしている、あるいは既にそうなってしまっているとも言える。(なぜ「観光」を日常的だと称するかについては書かない)

現代の観光は、システム的観光であるとワタシは考えている。(そちらの方が消費の効率が上がるからだろう)スマホ一つあれば、大体は完結する。ホテルの予約も。写真や動画の撮影も。電話も。配信も。検索も。そしてなにより、積極的な、生の人間の間における新たな情報交換もあまり起こり得ないといえる。Googleという偉大なお方がいるためだろう。加えて、現代は、江戸後期ほど、宗教が持つ社会的圧力がおおきくない。(信仰の自由?なんてものもありますから。)泉光院がそうであったように、奥地に赴き、金銭も何も持たない人間が托鉢によって、旅に必要なものを得ようとすることも、現代ではむずかしいだろう。「自分で買えよ」と、まずは言われるかもしれない。

一言で言うなら、現代は「物質的なインフラ」は割と整備されてはいるけれど、「精神的なインフラ」が整備されてはないというか、既に廃れてしまったのだと思われる。なぜか。それはそんなもの必要ないからであろう。「精神的インフラ」というつながりが無くても観光が出来るのが、現代という時代なのではないだろうか。

良いとも悪いとも、言わない。言えない。判断するなど、言語道断。多分世の中は、もっともっと「精神的インフラ」を廃れさせ、忘れ、閉じ込めていくという選択肢をえらぶかも”しれない”。そうでないかも”しれない”。と言っても、しばらく遠くには行っていないから、人との交流がからっきしで、ただワタシ自身の心象が表れ、この文章に反映されているだけかもしれない。あー。




今日も大学生は惟っている



引用文献

田村正紀.2013.旅の根源史 映し出される人間慾望の変遷.千倉書房

山田真茂留.2010.非日常性の社会学.学文社



🔵メインブログ🔵

サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。