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病的に読書する

大学生の時にしておくべきだったことの一例として、読書が挙げられることは珍しいことではないと思う。でもそれはおそらく、読書を中々していない人が想像するなんとなくよさげなものとしての読書であって、実際に読書をして大学生活を送った人の言い分ではない気がする。現にワタシは、本を読んでいるけど、今のところ大学生の時にしておけばよかったことには入らない。

というのも、読書が病的に思えるからだ。大学から2~3週間に一度のペースで延々と本を借りては読んでいる。それをだいぶ続けているけれど、満足した感じはしない。借りているだけでは十分では無いので(本を買うことによるお金の消失を恐れて図書館に借りに行くのだけど)、ちゃっちゃか本を買ったり。常に何か読んでいる。或いは何かしら本について、本の内容について考えている。そういう状態が二年近く続いているような(つまり入学した時からずっとか)。

本を読むだけなら簡単だとは思ったが、これが意外に難しい。そもそも本を一冊完ぺきに理解することは出来た覚えが無いし、常にこうじゃないか、ああじゃじゃないかと悶々としている日々だ。それに、本はすべてが繋がっているように思えてしまう。「食」に関しても、「旅」に関しても、「手」に関しても、「生き方」に関しても。本一冊が、本一冊で完結することはないのだなと、ようやっと理解できた気がする。本は一冊じゃない。数え切れないほどの人間と、時間と、労力のおかげで、そこに存在している。それが、便宜上「一冊」に見えている(なっている)というだけだ。

ワタシは、本一冊を読むことは出来ない。既に何かしらの本のページを捲ってしまった時点で、ワタシは、厖大な本に支えられた世界に足を踏み入れる。巨人の肩の上に乗る、とはまさにこのことで、ホントは一人よがりではなく、たくさんの助けを借りた、「自立」という言葉を(社会において)理解している人間のようだ。病的になるのも仕方がない、とまでは言えないかもしれないけれど、読めば読むほど、読まざるを得なくなる。どんどん沼に嵌っていく。むしろそちらの方が、自分を意識なくてもイイ分より引きこまれる。

本は、蓄積されていくものだと思う。何ってまぁ、本そのものにだ。百冊の本を読んだ人間と、一冊の本読んだ人間が捉える本の一ページは、まるで違っている。ただの黒い染みの中に、奥深い世界が見える。或いは行間に、或いは白紙にさえも(あなたは何故本の文章の周りに「余白」があるのか考えたことがある?)。本は色眼鏡の色素だ。偏見に染まっていくかもしれないが、”見え”ないものもまた同時に”聞こえ”てくる。”匂わ”ないものが、”味わ”える。バラバラだと思っていたものが、どこかで繋がっているのだと気づくことが出来る。

確かに病的かもしれないが、今くらいは狂っていてもいいと信じる。それは確かに強欲かもしれないけれど
幾重にも積み重なった本の傍に
新しく買ったばかりの本が横たわっていて
棚には付箋だらけの本たちがワタシを見下げ
資料の中に大型本(tome)が隠れている
この狭苦しくも愛い光景は今だけかもしれない。




今日も大学生は惟っている



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