企業が哲学を求めてるんだと
最近よく企業が哲学を求めているという記事をよく目にする。
従来の発想にとらわれない柔軟な考えとか、常識に反する創造的な思考とか、やはりそこには美辞麗句が嫌という転がっている。
ここでニーチェについての文章を引用しよう。
彼にあって、哲学はその正統的意味において遊びである。ニーチェは、人生には、人間には、そして世界には何の意味も無いことをずばり言ってのけた。国家の強大化、民族の進展、文化の繁栄、来世における救済、正義の実現、貧困の解消、幸福の追求‥‥‥などのあらゆるまじめな仕事は、それ自体として無意味であり、無価値なのである。(中島義道、2013、72)
意味を、価値を、魅力を強制的に意図的に見出だそうする、競争原理に則った、というかそうしなければ生きていけない集団が、意味のないものを考える哲学(ニーチェ)を取り入れようとしているのは何故か?
ぞれが不思議に思えてならない。
哲学が役に立つとか、そいうのは論外として
私の推測では、本来は意味も価値も無い活動をあるように見せている集団が「哲学」を取り込むことによって、自分たちの活動がやはり意味のあるものであるように見せようとしているようにしか思えない。
「一見無駄なモノの取り入れているんですよ、だから無駄ではない」という考えが見え隠れしているように見えてしまう。あくまで個人の思案だけれども・・・。
浅はかに、哲学が真に普遍的で、普遍知を求める唯一の方法だと思いこんでいるなら、なんとも可笑しな話である。
と
今日も大学生は惟っている。
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引用文献
中島義道. (2014).非社交的社交性. 講談社現代新書
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