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(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ:その三

「(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ:その一」

「(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ:その二。」

の続き。


個性化という同じ形式


「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」の、四つ目の系(レゾー)、作曲の系(レゾー)は、他者との差異を意識していない、ある意味では無機質的で、個人閉鎖的でな現象であるかもしれません。

これに関連して、就活をしたことがないのに就活イヤイヤ言っている10代のガキこと私が書いた、「シューカツ」に関する文章を引用したいと思う。(これも作曲の系(レゾー)かもしれない!)

ESとかエントリーシートとか、その単語について聞くたびに、「強制された個性」や「取り繕った性格・能力」、「みんな個性的という無個性」という言葉がいつも脳裏をよぎる。

個人が、個性を求められる。個人のレベルで個性化する。就活でも似たような事が言えるのではないか。皆が個性化するということそれ自体が、実は非常に「無個性」てきなのではないかとよくワタシは思う。その個性化が加速すればするほど、全体として皆が同じような方向へ向かう。同じ個性化という無個性として。(グローバル化がそれに拍車をかけているのでは?)

お~んなじようなというか、同じプラットフォームの上で、分かり易く云えば「スマホ」で行われるあらゆる活動、スマホという同一の形式で、個人が個性化する。就活という同一の形式で、個人が個性化する。

そういえば、最近は「Disney+」というサービスがリリースされましたよね。

ピクサーとか、ディズニーとか、マーベルとか、他の作品群をまとめた月額制のサービス。これも、同質、同一の形式上で、個性的な・多様なものが展開されているという、四つ目の系(レゾー)=作曲の系(レゾー)の延長線上のものなのではないかと考える。(というか最近はこういうサービスばかりやね)

ほらほかにもいろいろあるよ。携帯電話(スマホ)の日本三大企業。配達サービス。動画視聴サービス。動画投稿サービス。テレビ。大きなブランド。これらが不思議な事に、四つ目の系(レゾー)=作曲の系(レゾー)に見えてくる。

「(一つの)アウラから、複製へ。アウラの消滅から、それぞれのアウラの創出へ。」

というこの記事のタイトルは、四つの系(レゾー)の変遷と、同一の形式上での(予め想定された)個性化へ至る道を意識してつけたもの。

この記事の基になった、「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」という本の作者、ジャック・アタリさんは音楽の四つの系(レゾー)を用いて、現代に現れているであろう社会的性格を随分昔に予言しているようなもの。いやはや頭が上がらない。

一応まとめておくと

過剰な複製、反復への反抗的性格として生じたような、「他人と同じでいたくない」という思い(それすらももしや複製)が、既に、(ジャック・アタリによって)予想されたものであり、社会的性格・社会的趨勢の一つでしかなく、いやむしろ、各々が個性化するからこそ(ある意味では無個性的)、それが社会を表現するものとなっているのではないか。

それが、なんやかんやあって、「”自分の”、オリジナルグッズ」というものを作りますよというサービスや、多種多様なコンテンツを提供する月額制のサービスや、個人個人が情報を発信する場(SNS)という


同一のプラットフォーム上での”個性”

として表出しているのではないか。

ベンヤミンは、「複製技術時代の芸術作品」において、「アウラ(一回性としての価値)」の崩壊について、こう述べている。

複製においては、一時性と反復性が同様に絡まっ合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ。(ヴァルター・ベンヤミン、2000、145)

アウラの喪失。アウラからの平等性の剥奪。複製の叛乱。そして、また一回性を取り戻そうとする、或いは取り戻される動き。それは、かつての芸術作品の「アウラ」とは、異なるものでもある。しかし、物事の、或いは人自身の「アウラ」そのものという形で、「アウラ」が奪われたその平等性を取り戻そうとでもいうかのように。

その平等性を取り戻そうとする、それぞれの「アウラ」の創出は、しかし伝統や儀式から脱却しており、共同体という集団的なものではもはやない。どこまでの自己中心的で、個人主義的で、どこまでも自分を求め、自己を超越するためのもの。そのように見えて仕方がない。

作曲は、作るのでは無く、実は誂えられた舞台での、予測された、単なる需要としての、「作らせてあげる」という行動の結果でしかないのだろうか?いや、それは恐らく違うのだろうな。



今日も大学生は惟っている。


参考文献

ヴァルター・ベンヤミン.2000.複製技術時代の芸術作品.(多木浩二訳).岩波書店

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房

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