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目標って、過程の別名じゃないかな

バイト帰りにスーパーに寄って、新しく発売されていたウェルチのブドウジュースと、二つのおにぎりを手に取った。バックグラウンドには、Billy Joel の「We Didn't Start The Fire」が垂れ流しになっている。疲れていたはずだが、何故か耳は知らず知らずのうちに機能していたみたいだ。まぁ、目蓋みたいに”耳蓋”があるわけではないから、耳はいっつも情報に晒されなければならないのねと思うと、結構大変な役回りだなぁと。お疲れ様、耳。

ちなみに「We Didn't Start The Fire」についてちょっと書くなら、世界を作ったのはワタシたち人間じゃないし、人間なんてただの登場人物みたいなもんだよって感じだ。


最近降りてきたことなんだけれども、目標って、「end」ではないのではないかということだ。「end」には、「目標」という訳語をあてることもできるかもしれないけれど、究極的にどこにもたどり着くことが出来ないという意味で、それは「疑似的(pseudo)」な「end」なんじゃないないかと。
お金を稼ぎたい。
伝統を守りたい。
幸せになりたい。
そういって、目標らしいものを設置していった先には、そりゃ何もないはずです。だって、それが「end」なんですもの。でも「幸せになりたい」が目標だとしても、どうして幸せになりたいか問えば、論理的にはその原因があるはずです(という誤謬をしよう)。どうして幸せになりたいのか。はて、ワタシにもよく分かりません。これは人間だけの願いなのでしょか。それとも、生物全般にいえることなのでしょうか(菌類も?)。

「end」のはずなのに、その終わりとしての存在根拠が中々見つけるのが難しい。究極的に何かをすることには、明確な事由付けをすることが出来ないのではないかとも。やっぱり、目標って、「過程」の別名だと思うんです。それが、真の終わりになり得ないという意味で。人間は、常に何かの途上にいなければならないのかもしれません。どうしたって、何をしたって、結局無常観に浸ることになる。
幸せになって、さぁどうする? 
そこから先は、一寸先は闇、ではありませんが、捉え難いなにかがある(もしかしたら、なにもないかも)。

「幸せ」の話しになってしまいますが、幸せはそういう延々と発展し続けることに依拠するのではなくて、「これでいい」と線引きしたり抑制することが出来る寛容さと関係しているのではないかと思うのです。見据える先に、何も無かった。お茶漬けがあるから、まぁ、それでもいいではないかと。どこにもたどり着くことはない。物語のようにエンドロールが流れるわけでもない。都合よく「ハッピーエンド」でバッサリというわけでもない。死は結局(誰かが意味付けをしてくれる限りで)、終わりではなくただ無くなることで、誰かにとっての何かの誘発剤になるかも分からない何かなんだと、今は思っています。

輪廻転生とか、アフターライフを信じているわけでもないけれど、死は終わりではなく、ただの変化なんじゃないかと思います。悲しいかもしれないけれど、死は「end」じゃなくて、「switch(転轍点)」。
死人は死人として生きている。
そうやっていた方が、心の健康もよくなるしね(ワタシはね)。多分、全ての目標は生きるためのただの口実に近いものだと思います。究極、意味など無いし、それを求めすぎるほど宗教を信じているわけではない。

盛者必衰。
万物流転。
栄枯盛衰。
諸行無常。
有為転変。
すべては流れ流れて何かへと化していく過程を繰り返すだけ。数えられるほどのものか。数え切れないものか。どちらかは分かりませんが、目標たる目標に縛られずに、過程を楽しめればいいんじゃないかと感じます。ワタシは火を灯したわけでもないし(We Didn't Start The Fire)、火を消すものでもない。その火に頼り切って、消えないように消えないように、弱弱しくたたずんでいる。どこに行くかも分からないのに、って。まぁこれが人生かな、って悟ったつもりでいる苦々しいくらいの青二才です。



今日も大学生は惟っている





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