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イマジン/ワタシ自身からの距離を

鼻に違和感を感じて、目がパッチリして目を覚ます。鼻血が垂れそうになるのを手で拭い、手についた血を目視。それを今日の起きる合図とすることにした。それに、起きる前の夢でも、たくさん変なものをみた。

深夜の暖かい光に照らされる廃工場にあつまる奇怪な、何か。何かが、何かを罵倒している。言語化しようとメモにとどめておこうとしたが、それらが何だったのかは覚えていない。
また別のシーンに移ったかと思えば、サブマシンガンのMP7やARのAK-47をもって戦場を駆けている。なんでや。
或いは、仮面ライダー電王のクライマックスフォームになっている自分自身を、ゲームのFPS視点で捉えている。本当に、夢とは奇怪なもので。フロイトさん、これどういう意味 ?w

仮面ライダー電王といえば、イマジンという怪人(?)が特徴的だ。モモタロス・ウラタロス・キンタロス・リュウタロス・ジーク・デネブ・テディなど、味方側にも一杯いる、文字通り個性豊かな仲間たちといったところか。イマジンが人間に憑依すれば、憑依された人は意識を失い、イマジンが体をあやつることができる。一種の受肉みたいなもんだろう。最近色々悩んでいる内に、それが羨ましいなぁと思うようになった。というのも、イマジンたちが憑依してくれている分、ワタシはワタシでいる必要がなくなるからだ。起きている時間以外、極度に集中している以外は、ワタシは意識を保って、「ワタシ」として行動をしなければならない。それがまぁ疲れる。

ワタシは、「ワタシ」であることが少し嫌になっている。それには諸々の理由があるのかもしれないにせよ、自分が有意志である状態、意識的である状態が、とにかく疲れる。なぜワタシは「ワタシ」という意識を保たなければいけないのか、というアポリアにも似た何かだ。別にあなたの個性や特徴や逸話は何かと考えたりすることに虫唾が走るというのではない。これは。ただ、眠っている時間のように、この身体が起きている間でさえも、知らない誰かがこの身体の意識となって行動していてくれないかなと感じているだけのこと。いや正確にいえば、起きている時間のこの「ワタシ」という意識を保っていること自体が、思っている以上に(意識すると呼吸が苦しくなるように)、面倒くさく、苦しくなってくるということだ。

いっそのこと、であれば楽かもしれないが、それはそれでメンドクサイ。だからワタシは・・・なるほど色々なことに説明が付きそうだ。極度に集中している状態がとても好きなのかもしれない。その状態は、ワタシが「ワタシ」を意識する必要がない。意識という縛りに囚われることもない。本を読んだり、アスレチックで難しい場所に挑戦したり、自分という意識に構っている必要がないものが、心地いい時がある。

ワタシは物事の達成感、というものがよく分からない。それは、ワタシという「意識」でもって、物事を俯瞰することによって可能になることだから、あぁ・・・「ワタシ」がいるという事実に、ほんの少し意気消沈してしまう。達成感そのものというよりかは、その物事を達成するために何かをしているという過程そのものと、それに埋没する意識(=準無意識の状態)が多分楽なんだろうし、そっちの方が楽しい。過剰に「ワタシ」を意識することがおそらく嫌いなんだろう。
だから本当は、「自己とは」「自分とは」と、哲学的に問うのは、適していないのかもしれないってのに、どうして考えてしまうんだろう。

かといって、完全に自分の意識が無くなればとは思わない。そしたら元も子もないからねー。
ほどほどの自意識と
程ほどの準無意識と
睡眠。

この3つのバランスが取れてればいいかなぁ。そしたら死ぬときになっても、過剰に存在(していると思うことに囚われていた)「自意識」に縛られること無く、いなくなることが出来そうだしね。後、三分の二は無意識に近くて、残りの三分の一が意識に近いとすれば、案外人間が意識的である時間って、そんなにないのかもしれないね。ワタシが「ワタシ」である意識を保てる場所と時間。「ワタシ」を過剰に意識しなくっていい場所と時間。ワタシが一時的に停止している場所と時間。イマジンに憑依された遊びをよくしていたのも、まぁそれはただの意味の後付けですな。

今読んでいる「ハンズ 手の精神史」には、ちょっと興味深い意見がある。

いつの時代でも、文化の本質は「周囲の人から距離を置く方法」を見つけることにあった。〔中略〕人は自分自身を他者から引き離す方法をもっているからこそ、他者の近くにいることができるのだ。実際、ある女性患者は、生活に著しい変化があったときに抱いた不安を、「今の問題は、私を私自身から十分に引き離せるものが何もないことです」という言葉で表現していた。(ダリアン・リーダー、2020、178,180)

この引用文になぞらえれば、ワタシは、周囲にいる他者との距離を取ることだけではなく、ワタシ自身からも距離を取る必要があるのだろう。つまり、ワタシはワタシから孤独になる時間すらも必要なんだろう。再び日々の中でワタシが、ワタシと密接に暮らせるように。第一、何かからの別離やそれに準ずる行動がマイナスのイメージを持って捉えられるのも、ある意味狭い見方とも言えるのではないか。だけれども、「周囲の人から距離を置く方法」が、何故「文化の本質」たり得るのかについては、まだまだ勉強したり、考えたりしなければならないと思う。なにも、ワタシこそが「文化的」なんだぜと、言いたいわけではない。オンライン授業。名ばかりの緊急事態宣言を側目に、ワタシはほぼ家に籠りっきりだ。自分と対話しないほうが少ないくらいだから、(よく「ホームステイ」という言葉には、「自分と向き合う」とか、「自己研鑽」という言葉やイメージと結びつけられガチだとは思うけれど、それはどうしてだろう?)ワタシから逃れる術を、これからも探さなけければならないのだと思う。ワタシに埋め尽くされてしまうそうになると、ひどく苦しうなるから。まぁ「べき」に縛られてはいけないかもだけど。独りで居るということの中に、このワタシからも独りで居るということも、無視してはならないと思う。

まぁ平たく言えば、
「自分自分やかましいんだよ。ねぇワタシさぁ、ウザイぜ?」
っ感じですね。もしかしたら、このnoteも、ワタシを乖離させるための安定剤かもしれないねー。

では、ここまで読んでくれてありがとうございます。今日もたくさん、学びました。多分!






今日も大学生は惟っている


引用文献

ハンズ 手の精神史.ダリアン・リーダー.2020.(松本卓也,牧瀬英幹訳).左右社



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