影の階調に人間の輪郭をみた カート・ヴォネガット『母なる夜』 【読書中座記】
朝食の後先に少しずつと決めながら、一章では止めらずに数日をともに過ごしたヴォネガットが今朝終わった。読み終えてみると、付き合いは短くとも濃い友情を結んだ気分がある。
カート・ヴォネガット『母なる夜』(池澤夏樹=訳 白水Uブックス)は、ドイツでナチスの戦時広報を担う一方で実はアメリカのスパイでもあった劇作家の物語。第一章の出だしで自分が収監中であることを伝える主人公が、頻繁に過去を振り返りながら、善と悪の両方に仕えた彼自身の戦後を綴っていく構成だ。
しかしヴォネガットの信用できるところは、善と悪が一般的に、あるいはある一方の宗教的に流布されるおきまりの”それ”ではなく、もっと複雑で入り組んだ迷宮としての、現実の髄液が姿を見せるところにある。
『母なる夜』を読んでいて思い浮かんだ映画がある。ネメシュ・ラースロー監督の『サンセット』だ。ラースローはその映画を劇映画として撮ってはいるが、戦争というものが例えば「どこかの国の皇太子が暗殺された」というたった一つの理由で起きるわけではなく、過去や現在の複雑に絡み合った末の産物として提示したと思う。── わからない、わからない、でも、ある。こういうことはある。こういうこともあるかもしれないし、ちがうかもしれない、これは夢なのか、現実か、誰かの策略なのか、全ての登場人物は時代にもみくちゃにされながら戦争へ終着する。起こってしまった、起こしてしまった、巻き込まれてしまった、あるいは巻き込まれに行ったものとして。
映画『サンセット』とヴォネガットの『母なる夜』に通ずつるところは、戦時下のあれこれはもちろんあるとしても、重要なのはそこではなく、物語を物語ることによって、複数の人間という混乱した生き物の見せる物事の真髄、恐ろしさ、やるせなさを明確に浮き彫りにしたことだ。
真実には物語ることによってのみ可視できる、輪郭の薄い影の曖昧な領域が隠れている。これはある一面からのドキュメンタリーでは写し取ることはできない。真実のもっている影の部分の階調の豊かさは、物語という液に浸し丁寧に現像することではじめて、蜃気楼のように捉えどころなく立ち上がってくる。
ある女性から「アメリカは嫌いなの?」と尋ねられた主人公は答える。
ドイツでは著名な劇作家であった主人公は戦後のアメリカでどのように扱われるのか、ユダヤ人虐殺に手を貸した裏切り者としてか、またはシオニストに対する聖戦に参加したある一部の人間たちの英雄としてか、それともアメリカの優秀なスパイとしての苦く、幸福な老後だろうか。読者は朝食のコーヒーを飲み干す暇もなくページをめくることになる。
カート・ヴォネガットの筆力は、物語の構成もさることながら、読みやすいサスペンスと思わせるような難しくない文体のなかに、するどく真髄を刺してくるその眼差しを根源的な由来としている。人間という、えらく複雑で厄介な生き物に生まれてしまった読者を支える小説として、時代を超え長く書店にならぶ理由がそこにある。
fine 休憩室N
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