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減る棚Haiku<海外文学>

 洋書コーナーが遂に十冊になった。近所の大型古書店の話。数年前までは各国の出版物が並ぶ棚に珍しい図録や日本では未発売と思われる写真集を見つける楽しみがあった。
 今日フラリと立ち寄ってみると、十冊のみになっていた。年々コーナーが狭まり両手で足りる冊数になった。そもそも洋書以前に海外文学が売れないのだという話も耳に挟む。


   洋書の記憶

 洋書の思い出のなかに、旅の最中に立ち寄った書店がある。行く場所がどこであれその土地の書店に入りたくなる性癖は国を選ばない。大抵の店ではその町の地図を手に入れることができるし、アジアコーナーを覗けばHaruki Murakamiが何冊も見つかる。既読本の原書を発見する喜びや、藁半紙をちょっと厚くしたような安い紙を信念として選んでいる出版社に関心したりもする。

 イタリアの書店でヘルマン・ヘッセの詩集がないか尋ねたことがある。その旅には日本からヘッセ詩集を持参していた。読めないにしろイタリア語と比べてみたくなった。結局、ここはイタリアでその店にヘッセの詩集はなかった。それでも書店員さんが詩集コーナーに案内してくれた。
 詩集棚を物色する。すると、驚いたことにイタリア語で書かれた日本の俳句集がみつかった。


   タイトルは『Haiku』


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『Haiku』 Biblioteca Universale Rizzoli 発行 


 簡素な青い扉を開くと最初に「俳句とは?」というような短い章があるり、続けて<Antorogia di Haiku>として年代順の俳句が紹介される。1600年代のOnitsura,Basho,Ransetsuから始まりIssa,Shiki,そして、Soseki,Kakyo,Bosha等で終わる。
 ローマ字で日本語の俳句が記され、その横にイタリア語の翻訳が一首ずつ。全体が百ページ少々の薄手の作りで定価は4.99€と書かれている。ざらりとした手触りの紙を使い、高級ではないけれど六、七百円で異国の文化に触れられる出版物。

 『Haiku』は今でも自宅の書架にあり、時々「ローマ字の俳句って読み辛さ半端ないな」と思いながら捲る。なにしろ「suguni yonde shimatta」とは「直ぐに読み終えちゃったよ」の意味なのか、それとも「読んで本棚へ仕舞った」の意味なのか、一瞬迷う。それは洋書だからで日本語だからでもある。


 日本のブックオフでイエメンの写真集を買ったことを思い出す。太古から続く土の建築。成人男子が刃物を腰に指す習慣。じゃらじゃらと色とりどりの装飾品をぶら下げた民族衣装。乾燥と青い空。憧れ。

 洋書の棚が減る。流石に十冊は寂しい。

 海外文学。毎日のようにトマトソースを食べている人が一生をかけて編んだ繊細な小説。人生の大半をハンバーガーとサラミピザで過ごしながら素晴らしい詩集を紡ぐ人たちの秘密。
 それぞれの海としての熱帯夜、砂漠、砂埃、嵐、雪、乾燥、そして湿度。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか別の小さな書店の前に立っていた。何か、海の向こうの話が読みたい。棚から本を抜いた。


 アントニオ・タブッキ著 『いつも手遅れ』 河出書房新社 和田忠彦=訳


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 <Si sta facendo sempre più tardi>
 モノクロームの写真に薄いピンク色のイタリア語で書かれた著者名とタイトル。表紙の白黒写真には革靴にセータ、腕にコートをかけた男が、頭部にショールを巻いたピンヒールの女性と寄り添い海岸を歩いている。背後には砂浜があり、何かを探す顔の見えない修道女のような黒衣装の三人が写る。

 巻末の解説を少しだけ読んだところ、十八通からなる書簡の形式をとっているという。イタリア人でありながら最後はポルトガルに没し、フェルナンド・ペソアと同じ墓地に埋葬された逸話のあるアントニオ・タブッキの小説。『インド夜想曲』は読んだ。これはジャケ買いに近い。

 
 二冊目は『観光』という題のつけられた青と緑が鮮やかな文庫本。著者はラッタウット・ラープチャルーンサップ。(英 Rattawut Lapcharoensap / 泰 รัฐวุฒิ ลาภเจริญทรัพย์ )

『観光』 ラッタウット・ラープチャルーンサップ著 早川書房 古屋美登里=訳

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 片仮名表記の名前でタイ王国と思った。どことなくアピチャートポン・ウィーラセータクン(アピチャッポン・ウィーラセタクン)に似ている字面。
 タイを訪れる六月のドイツ人、七月はイタリア、フランス、イギリス人。そして八月には日本人がやってくるという彼らなりの暦から始まる。
 二十代での出版による若さは確かに感じる。しかし、来訪者であるアメリカ人との短い恋や、むっとするような路地裏の香気と共にバンコクの少年たちを描いた短編は、決して瑞々しさだけに留まってはいない。美しいアンダマン海にガンガゼの棘が揺れている。
 
 
 湿度や気温が変わると読みたい本も変わってくる。つまりそれは、バンコクの安宿のバルコニーでする読書と、枯れ葉を受け止めながら露天の下呂温泉で読む本の印象は全く違うということかも知れない。アメリカでも日本でもタイでも読まれる本というのは一体どういう構造をしているのか。

 冬は書物と窓が少し離れる。景色の見える窓辺の椅子に背をまかせ、横へ置いた飲み物と書籍を交互に楽しみたいところだけれど、冬は窓が冷たい。
 代わりに湯沸かしの乗せられたストーブのそばへ腰かけ、水が段々と湯気に昇華していく音を聴きながら本を捲る。国によってはそれが暖炉であり、オイルヒーターであり薪ストーブかもしれないし、そもそも冬などなくて砂嵐を聴いているのかもしれない。同じ地球でもそれぞれの今日は別の顔を見せている。

 異なるということは面倒も多い。暖炉の火の始末の仕方を知らないし、オイルヒーターの月額も知らない。タイには徴兵制があり、スコールが降る。
 それでも、減りゆく海外の本棚を登る。書籍はゆっくりと見知らぬ土地の植生を確認するように人を歩かせる。
 
 書架が近所の身近な場所で、手や耳や視線を異国の艀に触れさせる。書物より遠くを見渡せる双眼鏡があるだろうか。マストに上った見張り番が港を見つけ、船はやがてそこへ接岸する。書店や本を梯子していく。

 

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