休憩室読書中座記:レイモンド・カーヴァー著『夜になると鮭は・・・・』
シルヴィア・ブラスの『ベル・ジャー』を読み終えたあと、少し朦朧としたような読後感が残っていて次に何を読もうか考えてしまいました。そこで手に取ったのが読みさしになっていたレイモンド・カーヴァーの『夜になると鮭は・・・・』でした。
カーヴァーの短編や詩は好きで、何冊か読んでいますが、この本の最後には村上春樹さんとの短い対談があります。そこで村上さんはカーヴァーの作品と日本の伝統的な小説のあいだにある共通項として次のように述べます。
まさにカーヴァーらしいこのことを読みたくなったのです。『ベル・ジャー』の精神を病んだ実話をもとにした物語から抜け出し、安心したいという気持ちがあったと思います。劇的なことは起こらず、丁寧な喫茶店で静かにそっと器がテーブルに置かれるような居心地。そんな文章を求めていました。
『夜になると鮭は・・・・』
この本はカーヴァーの短編がいくつかと、詩、巻末インタビューで構成されています。久しぶりに開いたタイトルを見返しながら、読んだ内容を思い返しました。
雉を轢いた男が自分のことをなかなか打ち明けられぬまま女性を乗せて車を運転していく話。孔雀を放し飼いする夫婦と、彼らの家の棚に飾られた歯科矯正用歯形のこと、ドライブして誰かに会い、また戻ってくること。
そして、読みかけになっていた”疲れた男が犬を捨てに行く話”をもう一度最初から読み、次に<二十二歳の父の肖像>という最後の短編を読みました。
二十二歳の父の肖像
この短編はカーヴァーが亡き父親のことを振り返った話で、父の生い立ちや、共に生活した環境のことが綴られます。途中で父が精神を病み、電気ショックの治療を受ける逸話があり、一瞬『ベル・ジャー』へ引き戻されるかと思いました。
「小説家になろうと思う」と打ち明けた息子へ、父の返す言葉。それに対し、カーヴァーが心の中で思ったこと、そして、後年のわれわれだけが知るカーヴァーの心境の変化。そういったものが静かに染み入る短編です。
カーヴァーはお父さんが亡くなったときのことを別の詩集で<MY DAD'S WALLET>として書いています。葬儀のために、母親と二人で父が残した小さな財布を開ける場面。書かれていることは単純なことなのに、悲しみや後悔、情けなさなどが複雑に入り混じり、なんとも言えない感情の漂う詩。この詩を読んでいたので、<二十二歳の父の肖像>は一段と立体感を帯びて心に届きました。
レイモンド・カーヴァー
カーヴァーが素晴らしいのは、短編や詩の中に、死や、人生の後悔、理不尽、やるせなさなども沢山描くわけですが、それが重大な出来事として記されない。実際に面前で起これば大変な出来事であるはずなのに、どうもそういう雰囲気がない。むしろ、その辺の道端に放置された空き缶が、たまたま吹いた風に転がされ、カラコロ、コロとたてる軽やかな音のようにそこにある。
少し疲れてしまったとき、レイモンド・カーヴァーは大きな背中を丸め、きっと優しくぼそぼそと紙の上で呟いてくれる。いつも、そんな期待を裏切らない作家です。
fine
引用元:『夜になると鮭は・・・』レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳(中央公論社)装幀 落田謙一
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