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Romの生きている映画

イタリアはローマの公衆便所の個室に「Fuck Rom!」とスプレーで殴り書きされていたのは2000年のことだ。無知な旅行者でRomとはRomaの略称か何かだと勘違いしていた。ここはカルチョの国だ。きっとアウェーのファンが負けた腹いせに落書きして帰ったのだろうと思った。

違った。

Romとは日本語で書くならロマ(ジプシーと呼ばれることも多い)という流浪の民族を指す言葉だ。つまり、彼らを指して「くそったれ!」と殴り書きされていたわけだ。

その旅は暇だったので駅近くにある教会前の広場のベンチに座り、持て余した時間を人間観察でやり過ごすこともあった。ある時、ロマの女性が民族衣装に身を包み、教会の見学ツアーを終えた集団に近付いていくのが目に入った。彼女は左手に赤子を抱き、右手で喜捨を求めていた。ところが、しばらく見ていると彼女の左手はその同じ瞬間に観光客のウエストポーチを弄っているのだった。

ロマと呼ばれる人々の中には犯罪とされている行為によって生計を立てている人も多いと聞く。イタリア人の知人は「彼らは乳飲み子を誘拐する、そして哀れな子持ちを演じて小銭をせびる。」と言って、決して近付かなかった。かと言って彼らが全て犯罪で生計を立てているかといえばそんなことはない。ロマの音楽は世界的に認められているし、ライブやレストランでの生演奏で生活しているミュージシャンも沢山いる。

そんな、ROMと呼ばれる彼らの映画を観た。

『チャンブラにて』(原題:A Ciambra)



たまたまGYAOで放映していたので前情報は全くなく視聴した。公式サイトによれば日本公開当時は全国でも四ヶ所でしか上映されなかったようだった。知る機会は少ない。(この先一部ネタバレあります)


この映画は筋が通っている。生々しさがある。優しくない。ドキュメンタリーではなく劇映画という架空の物語の中でそれを可能にしている理由がある。それは出演者がロマ本人だということ。主人公のPIOを演じる青年がロマの人だ。実際、監督が撮影機材を盗まれるという事件があっとことで彼と出会ったのだという。ただ彼一人では出せない”リアル”がある。この映画には彼の家族など10人以上のロマの方々が出演している。青年の姓はAMATOというが、エンドロールで確認すると少なくとも15人がAMATOという姓で出演していて、実際にPIO青年の家族のようだった。

子供がタバコを吸ったり、悪さをしたりという以外にも象徴的なシーンがある。それは一家で食事をとる場面だ。大人から子供まで揃った狭い部屋でパスタが回され、「イタリア人みたいに食べるぞ」というシーン。画面の中に、これはフィクションではなく家族の撮影したホームムービーなのではないかと思うほど生の人々が写る。演技ではどうにも表現不可能に感じる空気がある。ロマという人々のもつ空気。何十年、何百年とイタリアで暮らしながら決して"主要”なイタリア人の中に暖かく迎え入れられることのない彼らの肌と温度。それが食事の短いシーンに満ち満ちている。
とはいえ、それが”現実”なのかどうかは分からない。旅先で見かけたロマという人々の様子や行動、または彼らをロマとかズィンガロとかファックとか呼ぶ側の人間の様子や視線。そこで印象付けられた彼らの虚像を重ね見ているだけかも知れない。

ただこの映画は南イタリアの一面を見せている。本人達という強い柱を支えにロマの世界を垣間見させる。それも観光バスの内側から涙を誘うように仕立てた乗り物的な作りではなく、登場人物の肌の傷や仕草、声の響きによってそれを成功させている。人はバスから降りなければ土地を踏むことはできない。





上町休憩室 管理人 N

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