【小説】Bar logosにて 2


そう言って男は店の入り口扉を示した。
“内側”。
『Bar logos』と描かれたサインの掛かる鉄の扉。
この店の造りは非常に変わっていて、扉の“内側と外側”の施工が全く一緒なのだ。つまり、扉のある壁を隔てて丁度鏡合わせのようになっている。
扉側の壁全体は、店の“内側”であるのに、“外側”をそっくり再現しているので、店を出る時には、向こう側へ“入っていく”感覚になる。
『Bar logos』は、入る時にも出る時にも“内側”への扉を開けることになるのだ。

「“内側”からやってくるもの…」

「そう。“内側”からやってくる、“現実”です。“普通“は見ることはできない。それが、私には見えるのです。“内側の現実”が」

“内側の現実”。
抽象的なイメージだが、不穏な黒い霧のような塊が、そこの鉄の扉を押し開けてゆっくりと滑り込んでくるところを想像した。また、胸の奥がざわざわと反応しはじめる。
男は、はっとしたように僕を見つめて言った。

「あながち悪くないイメージです。というより、まさにソレ、と思っていただいて構わないでしょう」

男は、僕の頭の中のイメージをビジュアルとしても取り出せるのか。
なんて便利なんだろうか。
男との対話が心地よいと感じられる材料のひとつはこれか、と新たに発見した。僕はほとんど喋ることなく、これまでの会話を成立させている。
寸分の差異なく伝わる。瞬時にコミュニケーションがなされるストレスフリー感。話すことに苦手意識のある僕にとっては、まさに理想の対話だ。

「ソレ…ソレはなんなんですか…?」

“内側の現実”と言われても分からない。

「そうですね。…見えてしまうもの、としてはその黒い霧ですが、聞こえてしまうものとしては」

そこで、はたと気付く。
それは、さっきまで男との対話に使っていたものではないか。

心の“声”。
そういうことか。
口に出して語られる声が“外側の現実”、そして、“普通”なら聞くことはできない心の“声”、それが“内側の現実”。
確かに一個の人間の中で相反する意識かもしれないが、どちらも“現実”であることに変わりはないだろう。
それを、表出するか否か、ただそれだけの違いだ。

「そうです。そうすると、その黒い霧の正体は心の“姿”ということになりますが」

男は一呼吸置いて、続けた。
見えない指揮者に操られるように。オーケストラは一斉に高まり、不協和音をかき鳴らす。そして、一瞬静かになった。

「“声”の場合、聞こえてくるのは主に生きている者の声ですが、見えるのは死んでいる者の“内側”なのです」

――死んでいる?それはつまり、アレではないか。

「「幽霊」」

僕の声と男の声が重なる。
なかなか悪くないコンツェルトだった。

「そう。実は一般的にそう呼ばれているものは、同じものなのかもしれません。霊媒師、霊能者などというような技能者、そして古くはシャーマンや悪魔祓いなんかも、私と同じような能力を持った者のことと考えられます」

幽霊。
急に陳腐なまでに身近に使い古された単語が出てきて、話の様相に色彩がついたように感じた。
と、同時に一気にオカルティズムの世界に足を踏み入れた気になる。
果たして還ってこれるのだろうか…。
水面に落とした一滴の黒インクがマーブル模様を描くように、不安が胸に広がっていく。

「そのような感覚に陥るのは、あなたの持つ“シニフィアン”のせいでしょう」

「…“シニフィアン”?」

「私たちは、通常、言語で思考します。スイスの言語学者、ソシュールは概念を示す言葉を“シニフィアン”、そして、言葉によって示される概念そのもののことを“シニフィエ”と呼びました。つまり、今あなたは“幽霊”という“シニフィアン”を使い、“オカルティズム”という“シニフィエ”を呼び覚ました」

男は、グラスに付いた水滴を指ですくい、カウンターにふたつの円を描いた。小さい円がひと回り大きい円に内包された図形。
小さい円が“幽霊”という“シニフィアン”、大きい円が“オカルティズム”という“シニフィエ”だと分かる。具体的な言葉は、抽象的な概念に内包されている。

「では、“幽霊”とは別の“シニフィアン”を使うとどうでしょう。例えば“クオリア”」

“クオリア”。
その言葉には覚えがあった。
全くの専門外なのだが、一度だけ知人の仕事の穴埋めにどうしてもと地に埋まるほどの深い土下座をされ、脳科学者に話を聞いたことがあった。
『人工知能は神を信じるか』という研究論文を発表していて、関連した著書も多数ある。メディアへの露出も積極的な人物だ。フットワークとノリは雲のように軽く、学者というよりベンチャー起業家のような印象を受けた。

「“クオリア”…。確か、“感覚質”というんでしたっけ…。ものでもなく、客観的に捉えることもできないので、他者間で共有するのは極めて難しいその人それぞれが持っている“感じ方”、その手触り…というのか…。僕もずいぶん前に聞きかじった程度なので、全くうまく説明できませんが…。そういえば、“クオリア”について教えてくれた学者が、こんなことを言っていました。『妊婦の大変さを夫婦で共有する“疑似体験プログラム”というのがあるが、あれではむしろ逆効果だ。“クオリア”の研究がさらに進めばその疑似体験を直接体験として他者に移行することが可能になる。これは、診断医療の発展につながることはもちろん、異文化、異年齢や性差を超えての理解、すなわち、現在盛んに取り沙汰されているダイバーシティの問題を大きく揺るがすことになる』と」

――そもそも、疑似体験をプログラムするということは、理解しようとするマイノリティに対して定義と議論が生まれる。これが“スティグマ”――負の烙印、いわゆる偏見と、そこからくる差別につながるのだ、とかそんな話だったと記憶しているが、“クオリア”の説明に関係なさそうだと判断し、口にするのをやめておいた。
とにかく、“クオリア”という“シニフィアン”によって導かれた僕の知る限りの“シニフィエ”を早口で羅列する。無理やり引っ張り出した半冬眠状態の知識はあやふやな輪郭をしていて、頭に浮かぶ傍から口に出さなければ消えてしまいそうに感じた。
一気に喋った後で、この男には言語化による説明は必要なかったことに気が付いた。が、一瞬、男の能力のことを忘れていたのは確かだが、今の言語化は男への説明というよりも、自分自身の中にあるあやふやな記憶を呼び出すための作業として必要だったのだとも思う。無意識に僕はそうしたのだ。

「“クオリア”についてそれだけご存じであれば、話は早い。“幽霊”という“シニフィアン”は“クオリア”に置き換えることもできます。“オカルティズム”よりやや科学的側面を感じる“シニフィエ”です」

男は、先ほどの二重円の横にまた同じような二重円を描いた。

「このふたつの概念は、恐らくは同じものを示しながらも実際のところは、このように並列して存在している。そして、同じように数多の概念が並列しながら無数に存在している世界、それが“現実”です」

呟くように語る男は、カウンター上に発生した概念の円環を手で拭い去った。わずかに残る水滴は、何の記号もなさないまま、小さく分裂してそこにある。

「このように、私たちは言語によって概念を生み出し、言語を並べてそれを説明しようとしています。つまり、言語によって思考している。今、“幽霊”と“クオリア”というふたつの“シニフィアン”によって“シニフィエ”が導かれ、思考の世界が広がった。言語が世界をつくり出している、ということです」

男は、グラスを傾け、その下に敷かれたコースターを僕の方へ滑らせる。
ベテラン棋士が駒を指すようなきれいな仕草だった。
男の手から離れたコースターは、『Bar logos』とやや乱雑な手描きで描かれたロゴが中央に配され円形に切り出されている。
言語がつくり出す世界。
“logos”は、言語。そして、古代ギリシャ哲学では、世界万物を支配する宇宙の根本原理を意味するのではなかったか。
ヨハネによる福音書の冒頭は、『はじめに言(ことば)ありき』だった。
その後には、何と続いていたか。
そう、言(ことば)は神であった――

「“幽霊”と“クオリア”が同義であると仮定すると、またおもしろい思考ができます。“幽霊”は実体のないもの、通常の定義では肉体を離れた念や魂というように捉えられています。一方、“クオリア”も、先ほどあなたが説明いただいたように、ものではない――物質性のないもの。ふたつは確かに似ています。そして、さらにおもしろいことにこれで“哲学的ゾンビ”の説明が実に明快になります」

“哲学的ゾンビ”。
これも、あの脳科学者が話していたかもしれない。
確か、“クオリア”を持たない人間、だったか。話を聞いたときは、自己意識や内的経験を持たないということへの理解が追いつかなかったが…。
正直によく分からないと言うと、脳科学者は、実際にこういう人間がいるとは思えないし、これは“意識”とは何かを問うための理論的アイデアとしての“言葉”に過ぎない、と言って豪快に笑っていた。難しく考えることではない、と。

「“幽霊”と“クオリア”を同義とすると、“魂”=“意識”の図式となります。肉体を失った“魂”は“幽霊”に、“意識”を失いなおも生き続ける肉体は“ゾンビ”に。つまり、“クオリア”を失った肉体が“哲学的ゾンビ”になるということが理解できます。あなたが“幽霊”という“シニフィアン”を用いたことによる気付きです。私も今までこれには気が付きませんでした」

脳科学者と対面した時には半分も理解できなかったことが、ようやく少し分かった気がした。“幽霊”と“クオリア”が結び付いたことで、概念に対する理解が深まったのだ。
同時に“言語”によって“思考”するということについても腹にストンと落ちる感覚を味わっていた。“シニフィアン”の円環が一つ現れ、“シニフィエ”の円環に包まれる。“言語”を獲得することで、この円環が増え続け、世界を満たしていく映像が頭の中に再生された。
世界を満たす?
いや、その無数の円環自体が世界の要素であり、それ自体が世界になるのだ。

“哲学的ゾンビ”になるということは。
自分の“言語”を持たないということとも同義ではないのか?
“言語”の獲得を放棄し、概念を深めることも自ら思考することもない。借り物の世界で、それが借り物であることも疑わない。
それは、生きながらにして死んでいることと同じ。
正しく、“ゾンビ”だ。

「それで、私はアレを“クオリア”だと仮定したわけです」

男は、話終えるとここで時間を区切るかのように長い息を吐いた。

「少し水分を摂られてはいかがです?」

そう言って、口の付いていないチェイサーを僕の方へよこす。
とてつもなく喉が渇いていることに、言われてはじめて気が付いた。
ちょっと込み入った話が続いたので、身体の方へ全く意識がいっていなかったようだ。

「あぁ…、どうも」

グラスの水をひと口、ふた口と飲み下す。
喉を伝う水が、流れながら身体の“内側”を冷やしていく感覚を味わいながら、はっとした。

男は、僕の喉の渇きを 知 っ て い た 。

僕が“意識”するよりも先に知覚として持っていた喉の渇きを、男も同じように知覚していた?

僕は、さっき“クオリア”のことを何と説明していたか。

――ものでもなく、客観的に捉えることもできないので、他者間で共有するのは極めて難しいその人それぞれが持っている“感じ方”、その手触り…。
“クオリア”の研究がさらに進めばその疑似体験を直接体験として他者に移行することが可能になる…。

どうして、僕は自分で説明しながらそれに気が付かなかったのだろう。
『Bar logos』で、この男と出会い対話をはじめてからずっと体験していたことではないか。

男は、僕の“クオリア”を拾っている。
僕の持つ自信のなさ、そこからくる心許なさ。言葉で言い尽くせない感情。何とも形容しがたい感覚。頭のスクリーンに投影したビジョン――そんな言葉ではないものまで。
僕の頭の中の全てが、言葉を介さずこの男には伝わっていたではないか。
それは、なぜか。
それは、この男が僕の“クオリア”を自らの内に拾っているからに他ならない。その知覚を持って対話しているのだから、心地よい。
いけないと知りつつも、どうしても求めてしまう「他者からの理解」というものを、これほど深いレベルで満たすものはない。
脳科学者も言っていた。

――異文化、異年齢や性差を超えての理解、すなわち、現在盛んに取り沙汰されているダイバーシティの問題を大きく揺るがすことになる、と。

男のような者の存在は、現代に求められて止まない「多様性への理解」を助けることになるのではないか。
人と人、その間に壁はなくなる。
あらゆる孤独は解消される。
僕は、半ば雷に打たれたような心地だった。目の前を閃光が瞬き、身体中を電気が走る。外部からの電気信号を受けて脳細胞が発火をはじめる。
僕の“内側”が潜在的に求めていたもの、それはあらゆる孤独の解消、それなのかもしれない。
見えない壁の“内側”にも入れず、“外側”で生きていく決心も付かないまま漫然と日々をやり過ごしていた。これに“シニフィアン”を加えるなら、それはきっと“孤独”だ。それは、自ら望む“孤独”については与えられる権利のある、無理解からの断絶という意味の“孤独”だ。

「“理解”ということにおいて、確かにあなたの考える通り、これ以上のレベルはない、のかもしれません。言葉のやり取りなく瞬時に“意識”を共有できる。想像でもなく、追体験でもなく、まさにその瞬間、寸分違わぬ同一の感覚をふたりの人間が持つのですから。しかし、孤独を埋めることができるのは“他者”のみです。知覚の共有はこれ以上ない“理解”のための条件かもしれませんが、それでは駄目なのです。同一であるのではなく、違うものとしてその差異を認め合うことで真の“理解”と“受容”、そして孤独の解消が為される」

男の静かでいて淀みなく流れるような語りが、耳を通り、身体に染み渡り、脳内を満たす。沸き立つ感情、波打った心が心地よく冷やされていく。

その“知覚”に意識を置きながら、僕は男の言葉を反芻した。
孤独を埋められるのは“他者”。同一であるのではなく、違うものとしてその差異を認め合う。
そうか、だから多少煩わしくとも、人は人を求めるのだろう。
壁があるから、打ってみる。そして、帰ってくるものを期待する。
ジレンマに苦しむ二匹のヤマアラシの姿が、脳裏に浮かぶ。温もりを求め合いながらも、寄り添えば互いの鋭い棘に傷付け合う。ひとり寒さに凍えるか、傷付け合うことを承知で近付くのか。
そんなヤマアラシの姿が脳裏をかすめるからこそ、僕は今までずっと、自らの“孤独”に気付かないフリをしてきたのだ。

「あなたが先ほど仰られなかった“スティグマ”のお話ですが、全く無関係というわけでもありませんよ。“スティグマ”を最小限に、“他者理解”を深めるには自分を語り、その“内側”に他者を入れるということが有効でしょう。まず必要なのが“自己理解”です。自己の再定義によって自分を癒していくことは可能です。
むしろ、ある意味では、精神医学や哲学などはほとんどがその賜物ではないかと思えるくらいです。今、あなたがイメージされた“ヤマアラシのジレンマ”で有名なショーペンハウアーの厭世観的思想とペシミズムや、フロイトの心理的発達理論や夢診断、詩人であるジョン・キーツが導き出したネガティブ・ケイパビリティなど、打ち立てられた理論や思想には少なからず自己の投影が見られるものです。“自己”の“内側”は自分にしか知り得ないのですから。同時に、他者の目線でしか知り得ない“自己”も存在します。自己を癒す過程が他者を癒すものになる、それがまた“自己”の救いとなります。これは、私の浅薄な持論ですが」

男の話を聞きながら、僕はこれまでに触れてきたなけなしの知識に焦点を当ててみる。
精神分析学の創始者であるフロイトは、大変なマザーコンプレックスを持っていて、それが自身の理論に執拗に“性愛”を持ち込んでいることからも理解できた。
病によって二十五歳の若さで生涯を終えたキーツは、その生涯の内に「理由付けや結論付けを急がず、真に創造的な創作をなす力」を見出した。それが、問題解決を急がない、ネガティブ・ケイパビリティの考えの根幹だろう。
そして、寒い夜に温まろうと寄り添うも、互いの鋭い棘に傷付き、近付くことを阻まれるヤマアラシはやがて、傷付け合うことなく温もりを感じられる程よい距離を見付けていく。
フロイトもショーペンハウアーもキーツも人生に“苦”を認めながら、悲観しながらも、自己をどう捉えどう生きるかを考えていた、そんな印象を持つ。
そして、そんな先人の遺したものに心を救われた過去を思い出す。
僕がこれまで、“内側”に秘めた“孤独”をやり過ごしてこれたのは彼らのおかげだ。
苦悩や悲観さえ、必要なものとして肯定できると教え諭されたのだった。

「人間とは、何と複雑な生き物でしょうね」

力なく笑う僕に、男はその声で包むように言葉を返す。

「元気付ける意図はないのですが…。実は、私もあなたのように考えていたことがあったのですよ」

「え?」

「“声”を聞く力に気が付いて間もない頃でした。“この力は人間を分断する壁を取り払うためのものなのではないか”と。正に、先ほどのあなたのようにね。私には何のためにこのような力が備わったのかと、ずっと考えてきました」

「さっき、“なぜアレが見えるようになったのか、分かってきた”と仰いましたが…」

「えぇ、そのことをお話するためにまず、アレが何なのかもう少しご説明しましょう」

男の視線がバーカウンター内側、僕たちから向かってほぼ正面の壁に向けられた。色とりどりのボトルがぎっしりと並べられた棚と棚の間に、絵が掛けられている。
コンパスの使い方を覚えた小学生の頃に、無闇に描いていた幾何学図形のようだ。一定の法則に従って重なり合い拡がる円がまた別の図形を浮き上がらせ、さらにその円を結ぶ直線が折り重なり、複数の立体を内包している。
こちら側に飛び出てくるようでもあり、向こう側に引き込まれそうな引力も感じた。
平面の絵でありながら、それは立体的なひとつの“世界”だった。

「――“世界”。そうです。あの図形の中には、この世に存在する全ての元素を表す立体が描かれています。正四面体が“火”、立方体が“土”、正八面体が“風”、正二十面体が“水”」

滑らかにこの異空間を振動させる男の声が吹き抜ける方を見やると、そこにも壁の絵と同じ図形があった。店の鉄扉に嵌められたステンドグラスだ。
今まで一度も気に留めたことはなかった。それが今この瞬間に、はじめて僕の世界に現れた。
僕は何度となく見ているはずなのに、たった今、それは現れた。

「そして、正十二面体が表すのが第五の元素、“エーテル”」

“見たくないもの”について語ると言う男の話には、脈絡がない。
言語学、脳科学、精神医学、哲学、文学が入り交じり、今度は何だろうか。物理学か幾何学か。
専門外の知識に置いてかれまいと、僕はひと口の水を含み、今一度気合を入れ直す。案の定、知覚されていなかった喉の渇きが癒されるのを感じた。

男の話は確かに脈絡なく、まさか僕もこんな話を聞いているという事実が夢のようでもある。ただ、そこに感じているのは“快”だった。心の奥深くにぼんやりと灯るそれを表現するには、ざっくりとし過ぎていたとしてもそう表すのが適切だと身体が知っているようだった。“不快”ではなく、“快”。今はそうとしか分からない。
男の声は、“快”を伴ってなおも僕の耳に届き続ける。

「“エーテル”は光を伝えるものとされていて、世界のどこにでも存在すると言われています。一方で、その実存性について完全なる否定も実証も導き出せていない。世界を知る上で重要かつ、在るとされていながら観測されていないもの、“クオリア”と似た“シニフィエ”を持っていますよね」

男の話こそ、光の明滅のようだ、と思った。
懐中電灯がある一点を照らす。かと思えば、一瞬消えて現れる光は、また別の一点を照らしている。もちろん、懐中電灯の照らす先に浮かび上がるものが大切なことなのだろう、とは思う。見逃してはならない、と意識を集中させる。目を凝らし、追いかける。
しかし、僕にはなぜか、その明滅の間をつなぐものの方が気に掛かった。
光を伝える見えないもの。僕はいつもその、明滅の間にあるものを見たかったのだ。

ふと、昔訪れた南米で見た風景が頭を過る。
「ニャンドゥティ」、現地の言葉で“クモの巣”という意味を表すそれは、パラグアイの伝統刺繍で、色とりどりの糸が縦横に織り込まれながら、様々な形を為す。
まさに“クモの巣”のように円形に張られた糸上を、捕らえられた蝶が彩るように、花や鳥を表す模様をまた別の糸が描きながら繊細につなぐ。その鮮やかさと規則的な調和の美しさの中にも自由を見たような気がして、感激したのを覚えている。
僕の知っている“刺繍”とは全く違っていて、どちらかと言うと織物のようだった。
現地の女性が器用に織り込んでいくと、糸は表に見える世界と裏側の世界とを同時に構築しながら形を為していく。糊付けされ、土台の布から切り出され自由になった花模様は耳飾りになった。
右も左も、表も裏も同一の世界がそこに出来上がっていた。

「“エーテル”も“クオリア”も観測できないものですから、言葉としての説明だけが拡がり、帰結する一点を持たないのです。こうして言語の世界で拡がり続けるものをどうにか収束できないかと、私は思考をはじめました。これは、私自身に大いに関わる問題ですから」

男にとって、大いに関わる問題とは“見たくないもの”が見えてしまうことや、“聞きたくないもの”が聞こえてしまうことだろう。
男は、それについて分かったのだ、と言った。ソレが何なのか。そして、なぜソレが見えるのか。

「この世界、ひいては宇宙がビッグバンという現象によってはじまった、というのはご存じですね」

こくり、と頷いて見せる。
男もまた、同じ仕草を見せて話を続けた。

「宇宙は全くの無の状態から百三十八億年前、突然の大爆発によって起こりました。全くの無から瞬間的に生まれ、拡がっていったのです。初期の宇宙は、プラズマ状態で飛び交う陽子や中性子、電子の世界でした。宇宙の温度が下がるにつれ、原子核が電子を捉え、水素をはじめとする様々な原子が誕生しました。そして星の元になるガスが生まれ、恒星ができ、銀河ができ、やがて現在の宇宙の姿が形作られていったのです。そして、今なお膨張し続けている」

また光の明滅だ。
光の照らす先は、宇宙科学、量子物理学か。
その光と光の間にあるものは何なのだ。織り込まれた糸、裏側に渡された糸はどんな軌道を描いているか。
僕は、その見えない部分をどうにかして見たいと思った。

「ふふ、そんなに構えなくとも結構ですよ。わたしが言いたいのは、とてもシンプルなことですから。つまり、我々は元々ひとつであった、ということ。そして、エネルギーの塊であったということ。ただ、それだけなのです」

男が口角を少し上げ、サングラスの奥で微笑みを見せた。
同時に男の声は耳に柔らかく響き、またしても僕の心をなだめていく。

「あそこに描かれている図形が“世界”の全て。“エーテル”や“クオリア”、そういった見えないものも含めて、世界です。そう考えると、私たちはあたかも、砕け散ったひとつの岩石から生まれ出た砂粒の一つひとつであるかのようです。少なくとも、私にはそう思える。目には見えない“クオリア”もこの世界中に散り散りになって、もしかすると他者間で共有していたりするのかもしれません」

僕は、男の声を聴きながら、南米の旅の最後に訪れたベリーズの海を脳裏に浮かべていた。
これぞ本来の地球の青さと思える深い青をたたえた海。白く砕ける波の下で光る無数の砂。引いては返す、そのリズムに踊りながら出会い別れを繰り返す一粒一粒の砂たち。
その一粒一粒が、元々ひとつだった。
その太古の記憶を胸に秘めて、波打ち際でかつての自分と戯れる。
僕は、自分がその砂のひとつになったような不思議な感覚に陥っていた。

「太古の記憶、我々がその意識をひとつにしていた時代の記憶は、まだそこかしこに存在しているように思うのです。私たちの“外側”にも、そして“内側”にも」

“内側と外側”。
男の声が、その境界をゆっくりと溶かしていく。
そんな感覚が、何とも心地よい。
僕はしばらく砂になって波に翻弄されるのを楽しんでいた。

「私たちは、その記憶を持っている。ただ、“内側”のそれを呼び覚ます資質には個人差があるようです。そして、“内側”の声を聞く資質も同様に」


〈つづく〉


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