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最も幸福な者~カムパネルラとの対話より(1560字)

「多くの問いを持つ者は、得てして持たざる者より不幸かもしれないが、より多くを知る者だよ」

カムパネルラは、右手の親指と人差し指とを擦りながら忙しなく言った。これから長い話を始めよう、というときの合図であり、長年の癖であった。
ジョバンニはその合図を受けて、珈琲を淹れるために立ち上がった。豆は昨日買ってある。

「さて、ジョバンニ。君は実存派と社会派のいずれかかね?」

豆を擦り潰すジョバンニを上目遣いに一瞥し、カムパネルラが訊ねた。
実存派、社会派。ジョバンニはミルの錆びたハンドルを2回回し、こう答えた。

「僕は、そのいずれでもありません」

「ほう」

興味深い、というようにカムパネルラが机に落としていた視線を上げた。机上は掠れたインクのメモやらタイピングされた古い資料やらで散らかっている。

「強いて言うなら、自然派、でしょうか」

そんなふうにジョバンニが付け加えるものだから、カムパネルラはいよいよ面白い!という態度で腰掛けた。勢いで、メモの幾つかが舞い落ちた。

「ほう、自然派、とね。つまり、自分自身にも社会にも興味が無い!と、そういうことか」

「大体において、そうです」

「それは結構」

ジョバンニが擦り終えた豆をドリッパーに移す間、カムパネルラは満足そうに微笑んでいた。

「より正確にお答えするのなら、僕は人間のことよりも何よりも自然のことに興味がある、ということでしょうか」

ジョバンニは、やっと聞こえるほどの小さな声で自信無さげに言った。口細の薬缶から注いだ湯がふわりと盛り上がって珈琲の香を辺りに漂わせる。ジョバンニは、その香を胸いっぱいに吸い込んだ。この瞬間が好きだった。

「やぁ、もっと自信を持ちたまえよ、君の意見だ」

「それに、素晴らしいじゃあないか」

カムパネルラの言葉と胸に吸い込んだ香ばしい香のおかげか、ジョバンニの中がほっこりと温かくなった。その温みを感じながら、ジョバンニは問うた。

「先生はどうなのです?実存派か、社会派か」

またはそのいずれでもないのか。
ジョバンニが言おうとした、その前にカムパネルラがこう答えた。

「そのいずれでもないよ」

部屋は2杯の珈琲液の香で満たされ、呑気な時間の中にある。ジョバンニは2杯分の珈琲を両の手に持ち、そのひとつをカムパネルラの机に置いた。マグカップひとつ分の空き場所をようやく見つけて。

「私も自然派だ」

そう言って悪戯に微笑み、コーヒーを一口啜った。

「美味い。何処の豆だね?」

「ずるいじゃあないですか。僕の真似をして」

ジョバンニはカムパネルラの問いを押し退けて、思わず口を尖らせた。カムパネルラはもう一口珈琲を啜った。

「ずるい?そんなことはない」

かぶりを振るカムパネルラを恨めしそうに見つめながら、ジョバンニはふー、ふー、と琥珀色の水面に息を吹き掛ける。猫舌なのだ。

「ジョバンニ、私は最初になんと言った?」

ジョバンニが珈琲を飲めずにいる間に、カムパネルラは3口、4口と珈琲を啜り、美味いと言った。

「えぇと、問いを多く持つものは不幸だが多くを知る、とか」

「ふむ、大体においてそうだ」

ジョバンニがやっと珈琲に口を付ける。美味い。何処の豆だっただろうか。

「実存とは?とひとつだけ問うよりも、実存派とは?社会派とは?と両者の違いを問うよりも、自分はどう考えるのか?を問う方がより問いが多い」

「先生、しかしそれは・・・」

ジョバンニは、珈琲に映る自分の瞳と睨めっこをしていたが、はっとして顔を上げた。

「そうだ。結局は実存派なのだよ」

「己の問題を抱えている。それも多くのね」

ジョバンニは、カムパネルラの声が遠くぼやけていくのを感じていた。珈琲の香を胸いっぱいに吸い込みながら考えた。
この珈琲豆は何処のだったか・・・。それが一番に気になっている。

「僕はやっぱり自然派ですよ」

そうして思った。僕は幸福だ。


END

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