訪問介護をやっていて一番聞いた言葉は
「ありがとう」ではなくて、
「すみません」「ごめんなさい」だった。
結局、三年続けた訪問介護事業所を去年去ったのだけれど、
今、思い返してみると、そのことが辛くなってきて辞めたのだった。
もちろん、理由は他にもある。
去年の時点では分からなかったのだけれど、わたしは双極性障害で、その特性からひとつのことを集中して長く続けるのが苦手だ。
恐らく、そのことが大いに関係しているのは間違いない。
だけど、そんな理由とは別に、続けたいけれど続けられない、福祉の世界に理想を描けば描くほど介護に携われないとどうしても思ってしまって拭えなかった時期がやってきてしまったのだった。
“理想を追い求めて何もしないよりも、目の前の人に手を差し伸べる”
そんなことができたらどんなにいいかと思う。
実際、一緒に働いていた先輩方はそんな素敵な心意気を持って仕事にあたっていた。
でも、わたしはそんな先輩方の姿を見、話を聞いてもどうしても介護を続けることができなくなってしまっていた。
こんなことを思い出したのは、ある光景を見たからだ。
買い物の道中のことだった。
歩道橋の階段をのぼる一人の高齢女性。
わたしは、そのすぐ後ろを女性のペースに合わせながらゆっくりのぼっていた。
ゆっくり、ゆっくり。手摺をしっかりと握りしめ、一歩一歩、次の段を確実にとらえ、踏みしめるようにして女性はのぼっていく。
わたしは、そんな姿を後ろから見守りながら、「きっと階段はキツイのだろうなぁ」、「膝の関節が痛かったりもするのかもしれない」などと思いながら、女性の身に自分を重ねてみたりしていた。
いずれは、きっとわたしも。
すると、ふいに右側の手摺を掴んでいた女性がよろめきながら、反対の左側へ移動しはじめた。
どうしたのだろう、と思ったとき前方からやってくる中年女性の姿が目に入った。
その女性は、今まで高齢女性の歩いていた左側をまっすぐ降りてきたのだ。
瞬間、なんと不親切な人だろう、と降りてきた中年女性に対して思った。
高齢女性がおぼつかない足取りで一歩一歩と階段をのぼってくる姿は、その女性にも見えたはずだ。
こういう場合は、高齢女性の歩いている左側は譲るものじゃないだろうか。
そんな風に思った。
対して、降りてくる中年女性は、そんなこと微塵も感じていないような平気な顔をしている。
ぶつからないように、慌てて右側に移動した女性は、中年女性とすれ違いざまにこう言った。
「すみません…」
わたしは何だかものすごいショックを受けてしまった。
「すみません」
その一言が、頭の中に響き渡ってリフレインしている。
その時に気が付いた。
あぁ、わたしはもう、こんな切ない「すみません」「ごめんなさい」を聞きたくないんだな、と。
直前、この高齢女性と自分自身とを重ねて想像していたこともあるのだろう。
わたしだって、あと四十年もすれば、この女性と同じ高齢者だ。
いずれそうなるのだ。
身体が次第に衰えてくる。言うことをきかなくなってくる。
筋力が衰えて、足が上がらなくなってくる。身体のあちこちが痛い。
判断も遅いし、目も見え辛い。
いずれそうなる。
それは、人間である以上仕方のないことだと思う。
その仕方のないことに対して、辛い実感の場面に直面して、さらにそのことを他人に謝らなければならないなんて、切なすぎるではないか。
動かない身体で他人に迷惑をかける。と、そのことを申し訳なく思わなければならない日がくるなんて、わたしは嫌なのだ。
だから、介護が必要な人たちが「申し訳ない」と思わなくていいようになったらどんなにいいかと思う。
それって、やはり理想だろうか。夢に近いようなものだろうか。
訪問介護をしてきて、本当に思ったのは、介護を受けることに対して「申し訳ない」という気持ちを持った人がとても多いということだった。
もちろん、日本人の特有の習性として、「ありがとう」の代わりに「すみません」「ごめんなさい」と言ってしまうということもあるだろう。
その場合にしても、つい「ありがとう」より「すみません」「ごめんなさい」が口をついて出るということは、心の何処かに「申し訳ない」という気持ちがあるからに違いない。
どうにか、その気持ちを無くすことはできないんだろうか。
「すみません」「ごめんなさい」よりも「ありがとう」が聞きたい。
生きていることを申し訳なく思わなければならない世の中なんて、おかしいよ。
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