文章デッサン(13日目)
何でも上達するにはものまねがいいという。では素晴らしい文章を真似して写せば、目で読むより、その文章のエッセンスを取り込めるのではないか。どれほど効果があるか分からないが、この作業を文章デッサンと呼び、表現力向上の一環としてやってみることにした。
今回写したのは太宰治「斜陽」の冒頭部分である。貴族の没落していく様を書いており、太宰治らしい退廃的な美しさのある作品である。斜陽の冒頭は、主人公(かず子)の母がスープを飲む、その飲み方を、事細かに描写している。スープを飲むだけでそんなに書くのか、と思う。
はじめて読んだときから、”きれいな文章”という印象を持っていたので斜陽を選んだが、改めて打ち込んでみると、一文が長く繋げられていていたり、重複する単語や表現が出てきたり、”読みやすい文章”とはいえない。これが実用的文章と芸術的文章の違いか、とさっそく身に染みる。
”きれいな文章”と感じたのは、やはり、お母さまの所作が可憐で儚げな印象を与えているからであろう。表現のすばらしさもあるが、かず子との対比がよりお母さまの美しさを際立たせているように思う。また、”読みやすい文章”でないことで、かず子のエッセイのように書かれる文章に、リアリティが出るのではないかと愚考する。一人称視点では、整然と読みやすい文章よりも、共感や没入感が得られるのではないか、太宰治にはそういう作品が多い気がする。
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇の間に滑り込ませた。ヒラリという形容は、お母さまの場合、決して誇張ではない。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。(中略)
スウプのいただき方にしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルのふちにかけて、上体をかがめることも無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずにスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらい軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。そうして、無心にそうにあちこち脇見などなさりながら、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、スウプを一滴もおこぼしになる事も無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは所謂正式礼法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども、私の目には、とても可愛らしく、それこそ本物みたいに見える。また、事実、お飲み物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいにおいしいものだ。けれども、私は直治のいうような高等御乞食なのだから、お母さまのようにあんなに軽く無造作にスプウンをあやつる事が出来ず、仕方なく、あきらめて、お皿の上にうつむき、所謂正式礼法通りの陰気ないただき方をしているのである。
ー 太宰治 斜陽 青空文庫
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