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僕は切り取られた空しか見たことがない。【短編】

 切り取られた空しか見たことがない。朝目覚めると湧き出た気持ちは、僕に自分の世界の輪郭をなぞらせるようだった。布団から抜け出し、部屋のブラインドをあげると、そこには窓に切り取られた空があった。

 ダイニングへ行くと、既に朝食が用意されている。食べ終わって食器を流しに持って行かないと母さんがうるさい。歯を磨かないと父さんがうるさいし、鞄を背負って家を出ると蝉がうるさかった。

 学校へ向かう途中も空を見上げた。マンションやビル、街路樹、看板、信号、標識、あらゆるものに空は抉られていた。僕は閉じ込められているのだろうか、格子の中から空を覗いているようだ。家と学校と塾をぐるぐる回って、どこへ行くのだろう。どこへも行けない気がした。ここから出たら、何があるのだろう。僕はこの格子から出てみたくなった。純粋な空が見てみたくなった。

 通学路を少しそれると駅がある。僕はその駅からいつも電車で塾に通っている。ICカードも持たされているので、これで遠くに行ってみようと思いついた。学校をサボることになるな、とぼんやり考えていると、ピヨピヨという音がして改札が開く。

 来た電車に乗ると運良く座れ、暫くすると電車には隙間無く人が詰め込まれた。初めて見る光景だ。これだけ人が集まっているのに、誰も一言も発さず無表情を貫いている。まるで何かに操られている人形のようで、僕もその一つだろうかと思った。隣の眠そうなお兄さんからはタバコのにおいがした。

 うつらうつらしていた。

「降りて下さい」

 肩を叩かれて顔を上げると、乗客は僕一人だった。車掌さんは僕の肩から手を離す。目深に帽子を被っていて、きれいに上がった口角だけが確認できた。

「すみません、ここは何駅ですか?」

 車掌さんは表情を変えずに、無言で僕を出口に導いた。そのまま僕が電車を降りると、たちまち扉は閉まって電車は行ってしまった。家を出たときよりも空気はひんやりとしていて、辺りは霧が立ちこめていた。

 ぐるぐる回っていた公転周期から外れたのだ、僕はもう帰れないかもしれない。そんな絶望がすっと入り込むのを感じたが、外の世界への根拠のない希望が僕を楽観視させた。

 霧の中には改札だけが見える。ピヨピヨと改札を抜けると、さくっと足が砂に埋まる感じがした。その音を合図にたちまち霧は晴れて、砂漠のような広い砂浜の先には水平線が見える。さく、さく、さくと駆けだして、見上げると、なににも侵されない、視界いっぱいの純粋な空がそこにある。僕は自由なんだと感じた。砂の上に寝転がって、やればできる、勝利を勝ち取ったような喜びが溢れてきて、うわー、と意味も無く叫んだりした。

 水平線の向こうから一羽の鳥が飛んでくる。とても嘴の大きな、図鑑でも見たことのない鳥だった。短いアヒルのような足で僕のそばに降り立った。

「やあ旅人さん、滞在予定を聞いてもいいかい?」

 外の世界では話す鳥もいるのだなと、僕はすぐに納得した。少し考えて、

「できればすぐに学校へ行かないといけない」

 と答えた。

「おっとお、それは大変だな。あの電車に乗るといい」

 そう言って鳥はすぐに飛び去っていく。遠くから電車の来る音がした。僕は急いで改札をくぐり、霧の立ちこめるプラットフォームで誰もいない電車に一歩踏み入った。

 気付くと近所の見知った駅のホームに帰ってきた。なんだ帰ってこれるのかと、少し拍子抜けしたけれど、安堵もした。時計を見ると急げばまだ学校に間に合う時間なのが不思議な感じだ。僕はマンションやビル、街路樹、看板、信号、標識の横を駆け抜ける。

 夢だったのかもしれない。夢だったとしてもこの冒険譚、あの空の景色はちゃんと僕の記憶の中にあって、またいつでも行ける気がした。それはいつだって勇気をくれる宝物のように、心の穴に収まった。学校の下駄箱で靴を脱ぐと、靴の中にはさらさらした砂が一杯だった。

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