足るを知るのは現実逃避か
インドのヨガや瞑想は「現世での頑張ろう」という気持ちを失わせる、格差社会を受け入れさせるシステムである。カースト制度という絶対的絶望の中で生きるために必要な現実逃避であり、割とその辺が自由な日本人がそれにハマるのはお門違いで、その現実逃避はただの無気力さである。
というようなことを言っている本を読んで、インドの思想には詳しくないけれど、本当かな、と思った。ここで言う「現世での頑張ろう」は社会的に成功しようというような意味合いで、その気持ちを捨てさせるのにヨガや瞑想は都合がよく、格差社会を成り立たせている、ということか。
しかしブッダは王族であった。人の生に絶望して地位を捨て、瞑想に耽り、悟りを開いた。むしろ貴族から広まったものであり、理不尽に耐えるために生み出されたものではない。実際、格差社会の特権階級に都合がいいのだ、と捉えられる面もあるだろうけど、本質的には違うように思う。
土着の宗教が物質的欲望から解放されるようなものに進化して、結果論としてそれが物質的欲望を持った人々に利用されている、ということだろうか。中世のキリスト教のように積極的に支配者階級が、信仰を利用して自分たちの地位を固めたというイメージはインドの宗教にはないので、結果論かと思うが。
考えてみれば広く普及する信仰というのは、民衆のためのものであり、支配者階級から過激思想であるとかいう制限を受けにくいものだとすると、足るを知って苦しみを遠ざける、というものになるのは当たり前な気もする。それは現実逃避なのだろうか、むしろ現実と向き合うことではないか。
日本人を引き合いに出すのは、日本の停滞を、最近の若者は根性がない、みたいなノリで嘆いているのだと思う。宗教的にニュートラルな日本人が、土着の淘汰を勝ち抜いたインドの思想にハマるのは、分からないでもないし、それは無気力ではなくより良く生きようという原動力になりうると思う。私腹を肥やすために頑張ろうとは思わなくなるかもしれないが、人間社会のために頑張ろうという気持ちになってもおかしくはないのではないか。
宗教と政治みたいな話は、リアルでなかなか出来るものではないので、ちょっと思ったことを書いてみたけれど、皆はどう思うんだろうか。
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