現在に居る、生きる人。 〜近代文学たちを添えて

幸福と時間、これには深く関係性がある。

深い悲しみでさえ、やがては時が涙を乾かしてくれるものだ。悲しみをいやしてくれるのは、ただ時だけなのだ――時は、そのときどきの気分や感情のすぎ去るのを見守り――やがては、すべてを憩わせてくれるのだ。

ゴールズワージー『人生の小春日和』

幸福のうち一つには、平穏というのがある。
平穏に生きる人には、未来や過去が存在しない。ただ、今を生きている。今しか想像できない。
時の流れは瞬間のため、速度の概念はなく、気づいたら一日が経っている。

春が来るなんて思わなかった。一日々々が消えてゆくをの、ただ見ているだけだったから。

平穏とは、無感動、ときどき感動。
この感動の状態にあるとき、時の流れはとてもゆっくりで、今にも死に絶えそうだ。痴呆老人のような歩き振り。
今際の際に居る人は、どのような時の流れをしているのだろう。それはきっと、平穏に近い、今を生きる、と言うより、今に居る、そんな感じだ。

尭は十二月になっても蝶がいるのに驚いた。それの飛んでいった方角には日光に撒かれた虻の光点が忙しく行き交うていた。
「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日だまりに屈まっていた。

梶井基次郎『冬の日』

しかし、ほんとうの感動は違う。ほんとうの感動には、時間が存在しない。感動が終息するにつれ、時間が発生し、この世に生きている感覚が戻る。

青く澄み透った空では浮雲が次からつぎへ美しく燃えていった。みたされない尭の心の燠にも、やがてその火は燃え移った。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎに死灰になり始めた。彼の足はもう進まなかった。

梶井基次郎『冬の日』

諸君もおそらく御存じであろう、あの魂の美しい酔い心地を。考えるのでもない、夢を見るのでもない。身も心も我を逃れ出で、飛び去り、散り失せる。我身は水に潜るかもめ、陽を受けて二つの波頭の間に漂う水のあわ、遠ざかり行くあの郵便船の白い煙、赤い帆かけたさんご船である。この波の珠と砕け、かの雲の一片と流れる。すべてありとあらゆる我ならぬものに…… ああ、この島に半睡と忘却に快い時をいかばかり過ごしたことか!……

ドーデー『風車小屋だより』『サンギネールの灯台』


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