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『門』(夏目漱石)

「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。

6月から連続して夏目漱石の作品を扱ったブンガクコース、8月最終月のテキストは『門』です。『三四郎』、『それから』と併せて漱石の前期三部作と言われていますが、主人公はみな異なります。主人公の名前も、設定も異なりますが、それでもどこか共通して一人の青年の過程と感じられるのは、上記のような神経の細やかさが三作品に共通しているせいかもしれません。

ブンガクコースでは作家の略暦もご紹介しているのですが、漱石先生は何度かとりあげているので、レッスンでご紹介している作家年譜も改訂を重ねてきました。教員生活から作家生活へスライドしたこと、小泉八雲先生との関係、明治の年号とともに年を重ねてきたこと、作家生活が10年と少ししかなかったこと、神経衰弱の話・・・などなど、私自身も興味深い話が多く、そらでも説明できるようになりました。作家の背景は、純粋な作品そのものとは関係ないと言うこともできるかもしれませんが、背景を知ることで見えてくる、意味深く感じられる面もあり、朗読教室ではそういったことも楽しめていけたらと常々思っています。

8月のブンガクコースは、『門』(夏目漱石)です。
暑くて外出もままならない夏、涼しい自室で朗読をお楽しみいただけたら幸いです。

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