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『感傷よりも青い月』3

「私は少し、煙草を吸うことにする。二人は喫煙者かい」

「ええ」堤と京介は同時に答えた。

「綾子は煙草の煙が苦手でね、悪いが二階の客間からバルコニーに出られるから、そっちで吸ってもらいたい」

「判りました、僕らも一服させてもらいます」

「十和子さん、案内してあげて。私は書斎で吸うとします。まだ、今日のノルマも終わってないのでね」籐次郎は自嘲気味に笑った。煙草は執筆中にしか吸わないというのは、この作家の有名な話である。

乾に連れられて、堤と京介は二階に向かう。客間には大きめのソファと広いテーブルがある。しかし、使われている感じはない。二階にあるだけ便利が悪く、客も居間に通すことが多いのかもしれない。バルコニーに続く窓がある。窓から外に出ると、バルコニーは存外に広く、プラスチックの丸テーブルと椅子が設置されている。卓上には灰皿が置かれていた。日陰になっていて、冷たい風がよく通る。

椅子に坐る。バルコニーの目と鼻の先には林が続いている。風に吹かれ、木の葉がさわさわと音を立てる。ジーンズからピースの箱を取り出して、一本を咥えた。ガスライターで火を付ける。

ポケットを探り、京介は舌打ちをした。どうやら煙草を車に置いてきてしまったらしい。

「忘れてきたんなら、一本どうぞ」堤はピースの箱を差し出した。

「いや、いいよ。面倒だが取ってくる。乾さん、駐車場のゲートに鍵は掛かってますかね」

乾がまだいることに驚いた。彼女は、鍵など掛かっていないと話すと、先導してゲートを開けに行こうとしたが、京介がやんわりと制した。掛かっていないなら自分で行きますと、駐車場まで煙草を取りに行く。乾は黙って、それを見送っていた。卓上の皿に灰を落とす。閃くものがあった。

「乾さんはいかがですか」

彼女はさて、と首を傾げた。やはり、という思いがあった。

「吸われるんでしょう?」

「あら、どうしてですか」乾は、疑問に思っているようだった。堤は灰皿を持ち上げて、乾に示す。

「吸い殻を捨てた状態でも、底に灰が残っていました。先生は執筆中にしか吸われないと聞きますし、現に今も書斎で吸っていらっしゃる。綾子さんに関しては、煙草嫌いと仰っていました。消去法で残るのは乾さんだけです。もっとも、綾子さんが隠れて吸っていなければですが」

「それはないでしょう。綾子さんはまだ十八歳ですから」乾は微笑んで、エプロンのポケットから煙草を取り出した。銘柄はマルボロである。いけない秘密を共有した気分になる。

「火を貸しましょうか」

「お気になさらず」乾は煙草にマッチで火を付けた。独特な炎の匂いが、風に混ざる。それだけの所作が、不思議に優雅だった。今時、女性が煙草を吸うのなんて珍しくもないことだが、彼女に関しては非道く意外に思える。家政婦としての恰好故にかもしれない。

「聞いていいことなのかは判りませんが、先生の奥様は……」

「綾子さんは養子です」乾は遮るように言った。「私も家政婦として来てから知ったことですが、結婚はされていません」

乾がゆっくりと煙を吐き出すと、豊かな風がそれを浚っていく。林に向かう煙は消えた。

「どういう経緯で養子に?」関係者でもあり、部外者でもある。乾になら訊きやすい。

「綾子さんはなんというか、清冽な人なんです。ぞっとするほど冷たいけれど、時間を忘れてしまったみたいに暢気で穏やかで……けれど、それは彼女が喪失しているからだと思うんです」乾はずっと、林を見ている。物憂げな瞳は、きっと違うものを見ているのだろう。堤は話し出すのを待った。

「十年前に事件があって、綾子さんの両親は亡くなりました。先生は綾子さんにとって母方の伯父に当たります。身内を一遍に亡くした綾子さんを榊先生が引き取ることになりました。先生は驚いたようです。引き取った綾子さんはすっかり無感動になり、事件のショックで喋れなかった」

「喋れなかった?」尋常の状態ではない。

「ええ、私が家政婦として雇われているのも、半分はそれが理由です。家事全般はそこまで大変なわけでもありません。十年経った今でも喋れない綾子さんの身の周りのお世話が主な仕事です」乾は長く息を吐いた。零れた煙が柔らかく昇っていく。

「喋れないというのは、大変ですか」言った直後に、莫迦な質問をしたと自分で思う。

「いいえ、それだって別に手間の掛かることじゃありません。お会いになれば判ります。彼女は堤さんの想像よりも、ずっと自立した女性だと思いますよ。むしろ、私の方が救われていると思います。私には、綾子さんがとても尊い存在のように感じられますから」

乾はうっとりと眼を細める。最初の印象とは随分違う。頽廃的な瞳が反動としての情熱を帯びるように、乾の表情が変化する様は、線の細い男性のような魅力があった。詩人が患う病にも似ている。思索のなかに永遠を置いてきたのだ。

「喫煙者であることを隠しているんですか?」少し意地悪な質問をした。

「綾子さんにですか? 隠しているわけじゃありません。どうでもいい秘密って、あるものじゃないですか?」乾は不意に、射貫くような視線をこちらに向けた。顔には微笑を浮かべたまま、確かにこちらを観察している。堤はそっと顔を背けた。

「ええ、もちろん」どうしても、毅然と顔を上げることのできない自分が腹立たしい。乾は見逃さなかったに違いない。

「疚しくもないことを秘密にしておくのは、なぜでしょう。きっと人は理解なんかしてほしくないんだわ」声は存外に優しかった。視線はまた、林に戻っている。

遥かに静かに、秘密を暴く誰か。斯くも誰かのために、人は秘密を設けるのだろう。そして、彼女は暴いたのだ。なにも知ることなく、理解してみせたのだろう。

陽射しは光線のように強かった。白日夢のバルコニーで秘密はなにもない。夢のように支離滅裂な午後は、秘密に影を与えない。すんなりと納得できた形象は、けれども、夢中での出来事のように、確実に意味不明のままだった。


それは、夢の中でのみ理解できたことだった。

京介がセブンスターを吸っている。視界に入っていたはずなのに、戻ってきたことに気付かなかった。煙草の灰がテーブルに落ちる。煙草は随分と短くなっていた。バルコニーに乾の姿は見えなかった。

「乾さんは?」京介に尋ねる。

「ん……ああ、さては寝惚けてたな。俺が戻ってきたぐらいに、廊下で擦れ違ったよ」呆れたような調子で言う。

「そう」綾子の部屋に行ったのだろうか。意識が覚醒に追いつかない。身体は陽射しの所為か、包まれるように暖かい。日光に身を任せると、すべてが夢だったような気もする。

「寝煙草は感心しないな」京介は、テーブルの上に落ちた灰を示す。

灰を手で払う。卓上の灰皿が眼に入った。短くなった吸い殻が、押し潰されるようにして、一本だけ入っている。

覚醒は幾分か早まった。京介は空に向かって、煙を吐いている。吸いかけの煙草を惜しみながらも、灰皿の一本に被せるように、煙草の火を揉み消した。

「ああ、そういえば」意識的に大きく声を出した。しかし、目覚めの声は掠れていた。

「なんだ?」

「乾さんが言っていたけど、綾子さんはまだ若いらしい」

「へえ、幾つだって?」

「まだ、十八だってさ」

「そうか、若いな」意外そうに呟き、京介は変わらぬ様子で煙草を吹かした。そして、穏やかな午後は瞬く間に夜となった。語るべきことなど、特にありもしないだろう。

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