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皆川博子(2020)『愛と髑髏と』を読んで

※内容に触れているため、未読の方は閲覧注意。

はじめに


皆川博子さん初読書。今回読んだのは皆川幻想小説の原点というべき作品集。私のお気に入りは、「人それぞれに噴火獣」と「舟唄」。
私自身がこの世界に異物として紛れ込んだような感覚を常に持って生きているのだが、それが尽く表現されており、ひたすら驚嘆するしかない。どの短編も毒がじわじわと体を蝕むようで、とても一気に読むことはできなかった。

生の希薄さ~「軀」という表現~


この一冊に通底するののが「生の希薄さ」だろうか。

例えば、本作品で「からだ」は「軀」という字があてられている。これは、「むくろ」とも読める(らしい)。以下の文を見ても、中身としての心や魂と、物質としての軀の区別を強調する意図があるのかもしれない。

危険なのだ、と、心の一部が告げていた。それなのに、軀が動かなかった。心と軀が、ばらばらだった。(「暁神」p.219)

とすると、「風」における「外側だけになってしまった鳥たちに、わたしは、わたしの魂を少しずつわけてやるようになった」(p.8)という部分も、中身と外身が作者にとって重要な意味をもつことを示唆している。

「舟歌」における千代のコーヒー


例えば、次の一連の文章。

自分一人のために、千代は、心をこめてコーヒーを淹れる。強い香りと味がひろがるとき、ああ、たしかに、自分の軀がここにある、と感じる。(「舟唄」p.131)

これは、自分だけのために淹れたコーヒーを飲むとき以外では、自分の軀を感じられないということの裏返しだ。「千代が気のいい笑顔でこまめに働いていれば、日常は穏やかに流れた」(p.124)が、木村と話すとき、彼女は「私ね、あやふやなことだらけで…」と語る。つまり、日常において彼女は他者が望む彼女であり続け、その呪縛から逃れることができなかったがゆえに、自分自身を築くことができなかったのだ。それは自分の軀を自分のものと感じられないこと、つまり生きている感覚の剥奪である。

「人それぞれに噴火獣」で描かれる視線


他者からの視線で言うと、蕗子の呪縛。彼女の母親は蕗子を視線で絡め取り、「だめねえ」と烙印を押す。

…しかし、母親がちょっと軀を動かして、一足部屋に踏み込んでくれば、まる見えなので、しじゅう緊張して、気配をうかがっていなくてはならない。(「人それぞれに噴火獣」p.66)

隅々まで母の目が見とおしている家。(「人それぞれに噴火獣」p.89)

芸術家である母親にとって、自らが生み出した子どもは自分をすり減らす存在であり、そのことを蕗子に隠しもしない。これにより、自分自身の存在への不安が蕗子を苛んでもおかしくない。だからこそ、蕗子が愛を求めるのは父親、あるいは吉岡だったのではないか。最後まで妹を死に追いやったこと自体が彼女を苛んだわけでもないのが非常に印象的だ。

「丘の上の宴会」における演技


また、「丘の上の宴会」の雪子は。

……他人といると、いつも、ぎこちなく芝居をしているように思えた。相手がこうと予想するせりふを喋り、予想する筋書をすすめるのに協力した。きまり文句というのがある。(p.159)

感情が希薄な雪子は、常に演技をし、なんとか他人に紛れ込もうとしている。そして、むしろ、自分の意見を求められることの方を恐れた。

「理解」と「ただある」こと


彼女たちは、自分の生を生きることができない。否、そもそも生の根本たる自分の存在すら、彼女たちにとっては曖昧としているのだろう。ただ、その苦痛というのは他者に共有されることがない。

刑事は、自分たちに理解でき、万人を納得させられるように、千代の言葉を変えていった。……言葉にしてしまうと、本当の気持ちとずれてくるので、千代は口ごもる。(「舟唄」p.148)

「舟唄」の千代が共に階段に腰を下ろしたのは、「年が幾つくらいなのかも、男が女かも」よくわからない唖者の「ウサギ」だった。この人物はある意味規範から逸脱した存在であると言える。そんな「ウサギ」は、千代を「無理に理解しようとつとめもせず」千代にも理解を求めなかった。「理解」とはつまるところ、先に引用した刑事のように、自分の枠組み(フレーム)に押し込めることを意味する。この二人の間に流れる時間を千代が快いと感じたのは、横並びでただ「ある」関係だったからなのだろう。しかし、二人の仲は周りの大人によって引き剥がされてしまう。

まとめ


他人からこうあってほしいと望まれること、あるいは存在を疎まれること望まれないこと、そうした毒が彼女たちを苛み、全身に回ったときには、いとも簡単にラインを越えてしまう。しかし、その行為の裏にある悲痛な叫びを誰も聞くことがなく、世界は彼女たちを拒む。この「世界と彼女たちの断絶」がなんとも痛ましい。助けて、という蕗子の声は誰にも届かない。

ここまで考えると、幻想的でどこか現実感のない短編集だが、本当にこれは幻想なのか。実はある種の人々にとっては極めて「現実」なのではないか。(解説で述べられていたように、現実からの離陸をしきっていないため、とも言えるかもしれないが、他作品を見ていないので現時点ではわかりかねる)
最後に収録された「暁神」は、何が現実で幻想なのか、そういった混乱をもたらしてこの本は終わる。

私は綺麗なだけのものを美しいとは感じない。皆川作品は深い闇を湛えた、腐臭のする甘い果実で、だからこそここまで魅了されるのだろう、と思う。


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