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人のために生きること

この年になって、いつまでも自分勝手な僕。
1人の生活に慣れてしまったせいか、自分のことばかり考えるクセが抜けません。


今年度最後の旅行に、高校同期のイツメンと6人組で行ってきました。車好きのMがリーダーなのでレンタカーを借りて行くのが常で、今回も例によって高速を飛ばして1泊2日で四国と岡山を回ります。

開幕早々、Nが寝坊するというまさかのハプニング。しかし一同大激怒、なんて訳はまったくなく、家凸して寝起きのNを軽くイジってあげました。このグループがもつ、信頼の下に成り立つ優しさや寛容さが、居心地のよさを生んでいたりします。

運転手はMとNと僕と、インドア細マッチョのJ。残りの2人は乗り専ですがレンタカー代もガソリンも基本全部割り勘。ここも寛容です。
遅れてきたNは「もし事故を起こしたら免許証のコピーを送るように」との条件付きでレンタカー屋さんから運転を認めてもらいました。3人で回すのはペーパーに毛が生えた程度の僕にはちょっと怖いので助かりました。

「渦の道」にて


本州と四国を結ぶ橋を渡っている途中、運転席のNが隣の僕に話しかけてきます。

「誰かに謝るという行為を誘発しているものが、単純な反省の気持ちではなく自分が許してもらいたいというエゴだと感じると自分が嫌になる」

寝坊のことを気にしているのか、いないかはさておき、その気持ちめちゃくちゃわかるよと大納得しました。謝らないといけないときに、迷惑をかけてしまった他人の顔ではなく、どうやって事を丸く収めようか、嫌われないようにしようかという自分の損得勘定の方が先に浮かんでしまうことはよくあります。
でもそれって、謝ってることに変わりはないんですよ。周りから見たら反省しているように「見える」し、むしろそこまで考えられる人って反省の念をきちんとわかるように表現する傾向にあるとも思います。難しい課題です。

心の内を語られて我に返ると、僕もたいがい自分勝手な思考で生きてきたな、と気づかされます。

極力一般道を他人任せにしようとするのは運転で事故をするのが怖いから。それはまだよろしいとしても、そう思う根本の原因を突き詰めると「事故で免許のランクが下がるのが怖いから」なのではないかと気づいたとき、途端に自分が嫌になりました。レンタカー返却所までの道を任されたときも、事故ったら終電間に合わないんじゃないか、と自分の利害を考えています。

この思考回路を切らないと、本当の意味での利他的な人間にはなれないわけです。他人の喜ぶ顔を見るために行動できないうちは、いつまでも独り身のままなのだろうと心が痛みます。
しかもこれ、気づかないことには変えられないんです。まずは自分を反芻しないと、そもそもその事実を認めることができない、と考えると、今回こうして気づけただけでも大きな一歩だったのかもしれないと感じます。


2日目の夕食のとき、Mが一言つぶやきました。

カフェレストラン「favori」さんにて

「次はみんなでキャンピングカー借りて旅行したいね」

車好きのMらしい、率直な願望。その中に、みんなでその楽しみを享受したいという利他の心を見た気がしました。

これはラジオの、もとい婚活アドバイザーの植草先生の受け売りではありますが、こんな言葉が心に残っています。

「大切な人がいると、楽しみは2倍に、困難や不安は半分にできる」

愛は数学では語れないんだ、と感心してしまいました。旅行メンバーのような大切な人たちを、これからの人生で見つけることができるでしょうか。きっと出会うことができたら、チャレンジへのハードルがもっともっと低くなって、変化の多い楽しい日々が送れることだと思います。

あ。

今無意識に、そのチャレンジをするのは自分だと想像してました。利己です利己。

まだまだ道のりは遠そうです。

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