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芸術はテキトーに見ればいいものではない

芸術作品を鑑賞するとき、あえて解説文を見ないようにした方がいい、という考え方の人が一定数いると思います。解説を見てしまうと自分のイメージが作れなくなってしまい、「芸術を楽しむ」という行為ではなくなってしまうと。自分の思うことを自由に述べてみて、みんなでディスカッションをしてみたら、案外美術って身近で親しみやすいものだとわかるんじゃないかと。
この考え方には一部賛成で、一部反対したいというのが正直なところです。

納得できるのはまさに太字の部分です。決められたイメージにのみ従って作品を見るようになると、ただ絵とその印象を暗記するだけの、美術のテスト勉強の延長線上の行為を繰り返すだけになってしまいます。これではせっかく見た絵から何も感じ取れないし、何も生み出せない。
自分で感想を持ってみた方がよっぽど能動的で価値がある気がします。

一方で、テキトーに意見を抱いて述べているだけではあまり意味がないんじゃないかな、と思ってしまいます。解説を読むと作品が文字になってイメージとして落とし込まれ長期間印象が残り続けるのに対し、ただ「なんかかわいいね」「色が綺麗だな」くらいにしか思っていないと記憶に残らない。わざわざ美術館や博物館に行ってみたのに何も得られていない、という話になってしまう。

この原因は明確です。広く一般的なことしか考えていないからです。
グルメを例にするとわかりやすいかもしれません。美味しい料理を食べた時、ただ「ほっぺた落ちるわ」「なんかめっちゃうまいね」「肉汁すごいな」と言っているだけでは、さほど記憶に残りません。

なぜうまいのか、なぜ自分がうまいと思ったのか、そのロジックを立ててあげないと意味がないわけです。「隠し味は〇〇かな」「このソース、家でも再現できるかな」と。一般的な話だけではなく自分に落とし込んで解釈することが、グルメのみならず美術を学びその理解を深めていく上でも必要不可欠だと思っています。

例えば華道の作品を見る機会があるとしたら、僕は農学部ですから多少植物のことは知っているし、今日色彩検定を受けたので色の配置や構成についてのこともなんとなくならわかります。そういう自分が得てきた情報を元にして鑑賞しないと、いつまでも人並みな、誰でも残せる感想しか出てこない。これでは他ならぬ自分が見ている意味がない。


能動的に考えることは時に疲れるものです。だから対抗馬として説明文が台頭してきました。それを見ればおそらく必ず正しい解釈が書いてあります。人間というのは自分が正しいかどうかわからないと不安になるものなので、考えるのが辛くなって解説文を確認し、安堵の表情を浮かべる人も多いのが現状です。

どちらがいいか、についての言及はこの際避けますが、強いていうならどっちもどっちですかね。鑑賞って正しい解釈をすればいいものでもないけれど、極端に曲がった解釈が許されるものでもないと思うので。そもそも鑑賞って複数人で行うことを前提としているものでもない気がします。大勢の人に見える場所に置かれているというだけで、やっていることは本屋で小説を読んでどういう思いが込められているのか解釈しようとする工程と変わりません。

めんどくさい話をしてしまいました。
見てる人間が金を払ってるんだから自由にしてくれ、と言われたらおしまいなのでこれくらいにしておきます。あまりキツい文を書くと嫌われそうです。


この文章を読んで何を感じたか、この際せっかくなので考えてみてください。
それが芸術を学ぶこと、なんじゃないでしょうか。
最後まで生意気すみませんね。
おわり。


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