傷つきやすい自分でいることと、コメディーをやること
僕はインプロ(即興演劇)をやっていて、インプロのほとんどはコメディー(喜劇)である。だからコメディーをやっているとも言えるのだけど、コメディーをやっているからといって「いい人」にはならないようにしたいと思っている。
「私は悪いことなんてしませんよ。安全ですよ。」という人はお客さんに安心や好感を与えるかもしれない。けれどそういう人が本当に興味深くなるのは難しい。
同時に、僕は人生の悲しみも失わないようにしたいと思っている。コメディーをやっていると人生が毎日楽しくなければいけないような気がしてくるけれど、人生には当然悲しいこともあるのだ。
でも、別にそんなことを思わなくても僕はいい人にはなれないし、悲しみは失われないことも知っている。そしてそれこそがコメディーなのだとも。いい人になろうと思ってもなれず、楽しくいようと思っても困難に陥ってしまうから人生は面白い。
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僕の今年のテーマのひとつは「詩的」である。インプロは面白くあってほしいけれど、詩的であってもいい。
だから詩的である自分をあまり隠さないようにしているのだけど、そうすると子供の頃のようなナイーブな自分が表れてくる。逆に言えばナイーブな自分だからこそ詩的になれるのかもしれない。
"Play is play." ―― 「劇は遊び」だから、子供心を取り戻す必要があるということはよく言われる。でも今の自分が取り戻す必要がある子供心は「遊び心を持った自分」ではなく、「傷つきやすさと純粋な優しさを持った自分」なのだと思う。それはしんどいけれど、舞台の上では役に立つから。
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先日マカオとフランスで活動しているというクラウンの女の子に出会った。クラウンとは舞台に出てきて、お客さんに笑われて(もしくは笑われず)、帰るという存在である。僕はクラウンを究極の即興で、そして究極のコメディーだと思っている。
その女の子に「あなたのスマイルはイノセントでいいね。きっとあなたのクラウンはイノセントなのね。」と言われたことが印象に残っている。
「クラウンになる」とは何かを演じることではなく、自分の中の純粋な部分が出てくることを待つことである。それがやってきた時、自分はどうなるのだろうか。それは切なくて、暖かくて、そしてコメディーになりそうな気がしている。
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