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週末は子どもと一緒に図書館に(前編):読書と日本語力

はじめに

私は週末に、子どもたちと車で図書館に行く。行く途中では騒がしかった子どもたちが、図書館からの帰り道には静かに本を読み始める。読書記録アプリによれば、娘は昨年1年間に343冊の本を読んでいる。

実のところ、これは子どもたちがもっと小さかった頃からずっと続けてきたことではなく、ここ2年ぐらいのことだ。その前は、図書館にあまり足を運ばない時期があった。

前編と後編に分けて書く今回の一連の記事は、図書館に通う私たちの日常、および、その背景としての読書と日本語力/国語力との関係の話だ。前編では特に、読書と日本語力の話を中心に書こうと思う。

なお、我が家はちょっと特殊で、妻は日本語母語話者ではないし、子どもたちはインターナショナルスクール(インター)に通っている。だから、子どもの日本語力というとき、うちの子どもたちには大半の日本語モノリンガルの子たちとは違った事情がある。今回書く話は、うちと同じようなバイリンガルの子やインター通いの子の親には、よくわかってもらえる話ではないかと思う。ただ、それだけでなく、そういう特殊な環境ではないモノリンガル環境の子どもたちの国語力という観点でも、参考になる話になればとも思う。

子どもたちがまだ小さかった頃

図書館という遊び場

娘が幼稚園の年中だった頃までは、娘と、ときには2歳下の息子も連れて、市立図書館によく行っていたと思う。その頃はまだ読書というよりも絵本の読み聞かせの時期だった。図書館の児童コーナーで本を選び、「おはなしのへや」というカーペットの敷いてあるスペースに行って本を読んであげたりした。子どもたちがまだ落ち着きがなかった頃なので、図書館内を走り回って職員さんに注意されたりもした。

子どもたちはどちらかというと、本を読むよりも図書館に隣接している児童公園で遊ぶのを楽しみにしていて、ちょっと絵本を読んであげたあとは、公園へと向かった。そしてひとしきり遊んだ後、妻に車で迎えに来てもらうか、バスで家に帰るかした。

図書館に足を運ばなくなった三つの理由

それがだんだんと、図書館に足を運ばなくなった。これには三つの理由があったと思う。

まず、子どもたちの習い事で忙しくなってきたというのが、一つの理由だった。共働きの我が家では、習い事が週末に集中しがちで、週末にちょっと図書館にというのが、容易ではなくなってきたのだった。

図書館が近くにないというのも、足が遠のく原因の一つだった。考えてみれば、私が育った東京のとある特別区には図書館が10館あるのに、今住んでいる政令指定都市の区は、面積がほぼ同じであるにもかかわらず、図書館が一つしかない。我が家から図書館に行くにも、車かバスか地下鉄で行くしかない。子どもたちがもうちょっと大きくなれば、自転車でも行けるかもしれないけれど。

もう一つの理由としては、図書館に行かなくても家に本があったからだ。私たち夫婦が子供に買ってあげた本、プレゼントとしてもらった本、大きい子を持つ知人から譲ってもらった「おさがり」の本。妻の家族は韓国にいたし、知人・友人はアメリカやオーストラリアにもいたので、プレゼントとしてもらう本には、韓国語の絵本や英語の絵本もあった。また、ベネッセのワールドワイドキッズに契約していたので、そのセットに含まれる英語の絵本もあった。そういうわけで、図書館で本を借りなくても、家にある本を読み聞かせしてあげたりしていた。

後でも書くように、家に本がたくさんあるとしても、それを繰り返し読むだけでなく、図書館でいろいろな本を読んであげる(または読ませる)ことに意味があったと思う。でも、当時はそこまで考えなかった。

やがて娘はインターの小学校に入学した。

日本語力の悩み

ところで、周囲を見ると、インターに子どもを通わせる日本人の親は、たいてい子どもの日本語力を気にしていると思う。日常会話は全く普通に日本語で話せても、文章を読ませると同年代の日本語モノリンガルの子たちと同レベルのものを読むのに苦労するのだ。

インターに通う子が日本語の文章読解のレベルが低いというのは、考えてみれば不思議なことではない。普通の日本の学校に通っていれば、国語・算数・理科・社会、図工も音楽も体育も、全て日本語で習う。一方、インターの子たちは、日本語の時間には国語の教科書で日本語を習うものの、それ以外は全て英語だ。また、親が日本語母語話者でない場合であれば、家庭でも日本語を使う量が少なかったり、使われる日本語の語彙にバリエーションが欠けていることもあるだろう。

語彙の量は母語話者でも個人差がかなり大きい。バイリンガルの場合は特に、その言語を使う場面が限られていたり、使う語彙が限られていたりしがちなので、一つの言語だけに目を向ければ、語彙の量はモノリンガルよりも少ない傾向にある。知らない単語が多ければ読むことに苦労する。またそもそも、学校教育で用いられない言語については、読み書きをする機会自体が少ない。一見二つの言語を流暢に話すようでも、一方の言語では読み書きが苦手だというのは、世界中によくある普通のバイリンガルの姿だ。

↑バイリンガルに関して最近読んだ本。参考までに。

もちろん、インターに子どもを入れている親は、それを承知の上で、何らかの理由があってインターに入れている。(私たち夫婦が子どもたちをインターに入れた事情については、以前の記事に書いた。)日本語力に多くを求めず、インターの授業についていくに十分な英語力さえあればいいという考えを持つ親もいるだろう。ただ、日本語も高度なレベルで身に着けてほしいという思いは、特に親が日本人である場合には持ちがちだと思う。私もそうだ。高望みかもしれないが、帰国子女で日本ではインターに通っていたのに、歌詞にさりげなく平家物語の一節を入れたりする、宇多田ヒカルのようになってほしいと思っている。(歌手になってほしいという意味ではありません。)

そうだ、読書をさせよう

では、どうやって子どもの日本語力を高めればよいのか。

あるとき思った。インターでは読書(この場合、英語の読書)に力を入れている。それも、日本の学校の国語の時間にありがちな精読よりは、たくさん読むこと、つまり多読を重視しているように見える。カリキュラムの中にはReader's Workshop(読書家の時間)がたくさん組み込まれているし、学校の図書室で毎週本を借りて家に持ち帰ってくる。また、読書アプリを学校で契約していて、学校で使っているらしい。(コロナ禍でオンライン授業のときには、家でもこの読書アプリを使って読書をさせることになった。)学校で使用していた読書アプリは、最初はRaz-Kidsというもので、最近はEpic!というものを使っている。読書はとにかく大切だと、先生はことあるごとに強調していた。

そうだ、読書をさせよう。そう思った。日本語でも読書をさせればよいのだ。

読書をめぐる研究

なぜ読書が大切かについては、いろいろと研究が行われている。子どもの読書について考える中で、その一端を多少知ることになった。私はこの分野の専門家ではないが、私が理解したことをここで少しまとめておく。

前提として:言語学習における二つのアプローチ

言語の学習には一般に、二つのアプローチがある。一つは明示的に(主として親や教師を通じて)習うというものだ。例えば、うちの子が国語ドリルをやっていて、そこに出てきた「包帯」という言葉を知らなくて私に聞いてきたりする。そのときに実際に包帯を持ってきて見せたり、あるいは「怪我をしたときに巻く白くて長い布だよ」と私が説明してあげたりする。それによって、子どもは「包帯」という単語を学ぶ。

もう一つは、用法から自然に学ぶアプローチである。赤ちゃんは親から明示的に言葉の使い方を説明されなくても、周囲で使われている言葉を聞いて、どんどん身に着けていく。あるいは、大人になってから外国で暮らすようになっても、その国の現地の言葉に接する中で、その言語がどんどん上達することがある。

言語の学習における読書の効果を指摘する研究はいくつかあるが、主として後者のアプローチによる効果を指摘しているようである。

『読書はパワー』

読書の効果に関する古典的な本として、スティーブン・クラッシェンによる『読書はパワー』(原題:The Power of Reading)がある。クラッシェンは第二言語習得の分野でとても有名な研究者なので、大学で第二言語習得についてかじったことのある人であれば、彼の名前は必ず耳にしたことがあるはずだ。

クラッシェンは、第二言語習得だけでなく読書に関する研究も精力的に行っている。そんなクラッシェンが、自由読書の効果について一般の読者に向けて書いたのが上の本だ。(ちなみに、元の英語版は、2004年に第二版が出ているが、私はそちらのほうは読んでいない。)

ここで述べられている自由読書の効果は、語彙力、綴りのスキルなど、多岐にわたっており、興味深い。ただ、研究が古いとも思う。特に、綴りの学習に読書が有効かという点については、英語圏で巻き起こった "Reading Wars" と形容される激しい論争が反映されていないと思うのだが、話が逸れてしまうので、ここでは詳しくは書かない。

『読書と言語能力』

読書の効果に関する本としてもう一つ挙げたいのは、猪原敬介著『読書と言語能力』という本だ。これは、主として語彙力に議論が限定されているが、日本で行われた研究をまとめた本であり、また2016年に出版されているので最近の研究成果が反映されている。教育心理学・認知心理学を専門とする著者の博士論文をベースにした研究書で、(著者は「専門家と非専門家の両方を意識して書かれたものである」(p.7)とは言っているものの)非専門家が全てを理解するのはなかなか難しいと思うが、1章や終章は非専門家にも理解しやすいように書かれている。

ちなみにこの本については、以下のブログにかなり詳しいレビューがある。

上のレビューがとても詳しいので、私が改めて書くまでもないかもしれないが、私なりにポイントをごくかいつまんでまとめると、読書と言語能力の関係を調べるのは簡単なことではない(なぜなら、個々の子どもたちの普段の読書量を測るのが難しいから)が、それでも様々なアプローチで研究していくと、やはり読書を通じて自然に言語能力(ここでは主として語彙力)を高めていくことは効果的だということだ。

著者は、読書が単に効果的だというだけでなく、もうちょっと踏み込んで次のように述べている。

読書の重要性そのものは認識されても、その具体的な方法については「何でも良いので、とにかく読ませれば良い」という単純なものが実践されていることが多いのではないだろうか。この点について暫定的な結論を言えば、「本人の言語力にアンバランスなところがなく、最低限の水準まで高まっていることを確認した上で、本人の言語力の水準に合わせた本を読ませる」ということになるだろう。
猪原(2016: 238)

このうち、「言語力にアンバランスなところがなく」というのは、ディスレクシアなどのことを言っている。(ディスレクシアについては私も関心のあるところなので、この記事の最後でも少し述べる。)「最低限の水準まで高まっていることを確認した上で」というのは、本人の言語能力が十分に高まっておらず一人で児童書を読めないうちは、まだ早すぎるということだ。そして最後の「本人の言語力の水準に合わせた本を読ませる」というのが、最も重要なことである。

読書を通じて語彙力を自然に高められるのは、知らない単語に遭遇したときに、文脈から単語の意味が類推できるからだ。そこで「本人の言語力の水準に合わせた本」が重要になる。つまり、本が本人の言語力の水準に合っておらず、その本の中で知らない単語が多すぎれば、十分に類推を働かせることができない。一方、簡単すぎる本を読んだ場合、その本の中に出てくる単語はすでに全て知っているということになるので、その本を読むことで新たな語彙を獲得することができないということになる。(もちろん、読書は語彙力のためだけにするというわけではないので、別の面では読むことに意義はあるかもしれないが。)

さて、私自身は、こういったことを調べていくのと並行して、子どもたちに読書をさせることに本格的に取り組んでいくことになる。そのあたりの経験を中心にした話は、次の後編の記事で。

補足:発達性ディスレクシア

うちの子たちは(今まで見る限り)関係なさそうだが、一般論として、読むのが苦手だという場合には発達性ディスレクシア(読み書き障害)を疑った方がよいかもしれない。発達性ディスレクシアについては、今回の話題とは別の関心からいろいろと調べたことがあったので、ちょっと書いておきたい。

発達性ディスレクシアは、読むことや書くことに困難があるという障害で、学習障害のうちで最もよく見られるものである。英語圏ではよく知られており、また、報告されている数も多い。研究によって報告されている割合にはばらつきがあるが、英語圏では3%~10%の割合で発達性ディスレクシアの人がいると言われている(スノウリング 2008:17)。つまり、多くて10人に1人ぐらいいるかもしれないということだ。

上の本の日本語版の付録(ワイデル氏が執筆した部分)にも書かれているが、言語によって発達性ディスレクシアの報告される割合に違いがあることが知られている。これは、言語の書記体系の違いが関係していると言われている。日本語では英語ほどには発達性ディスレクシアの報告される割合は多くない。Uno et al. (2009) は文字種と読み・書きに分けて日本語の発達性ディスレクシアの割合を調べているが、それによれば次のような結果になっている。

平仮名 読み 0.2% 書き 1.6%
片仮名 読み 1.4% 書き 3.8%
漢字  読み 6.9% 書き 6%
Uno et al. (2009) において報告されている日本語の発達性ディスレクシアの割合

発達性ディスレクシアに関する一般向けの読み物としては、以下の2冊のマンガがわかりやすい。上述の論文の第一著者である宇野先生も登場する。

ただ、このnote記事で話題にしているようなインター通いの子たちや、外国ルーツの親を持つバイリンガルの子たちの場合、日本語の本を読むのが苦手だとしても、発達性ディスレクシアを疑う前に、日本語力の不十分さをまず疑ったほうがいいだろうとは思う。先述の猪原氏のいう「本人の言語力にアンバランスなところがなく、最低限の水準まで高まっていることを確認した上で」における、後半の(言語能力が)「最低限の水準まで高まっている」かどうかという部分だ。


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