(うとQ世話し 「無名(肩書きなし)」でいるに越したことはなかったのでは?)

2021/7/19-1
(うとQ世話し 「無名(肩書きなし)」でいるに越したことはなかったのでは?)
物事を探求するのに、つまり「それは何故そうなるのか?」を追いかけるのに肩書きは却って邪魔になるような気がします。
それというのは肩書きがあると無意識にも
「それとして振る舞わなくてはならない」
とか
「それとしての成果を出さなくてはならない」
と思って縛られてしまい、バイアスがかかって求める解とは全然違う方向にそれてしまう可能性があるからです。
自分は故立花隆を見ていて、誠に勝手な想像ながら彼はある時から「ジャーナリストとしての誇りや矜持」とは全く反対に「ジャーナリストという肩書きが却って邪魔になっていた」のではないかと推測しております。
物事を探求するに、物事探求の為の資金調達面以外では
「無名(肩書きなし)でいるに越したことはない」
彼はそう思っていたのではないか?
自分はそんな気が致しております。

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