うとQ世話し 続「子、親を選べず」その三
2021/2/6
(うとQ世話し 続「子、親を選べず」その三)
「子供は天才」という意味の塾名の書かれた送迎バスを見る度に、真之介君はいつも憂鬱な気分になります。
自分は全然そうではないからです。
お金持ちで勉強がすごく出来る誠君の様な子はそうかもしれないし、もっと小さい子には天才な処があるのかもしれないけれど、もう小六にもなった、お金持ちの子でもない、学校の勉強も普通の出来映えか、それ以下の自分には関係のない話しなのだと思い知らされるからかもしれません。
仕方がないので、幾分自棄気味に、そうして当てずっぽうに
「どこの話やねぇ。塾が、小さい子の親に茶坊主しとぅだけやないかぃ、嘘くさぁ」
と決まって口の中でぶつくさ言います。
そういえば友達の殆どは中学受験で、今頃の時間帯には遊ぶ子もいません。
部屋に籠もるのや、歩きながらゲームをするとお父さんがとても怒るので、仕方なく街をぶらぶら歩いていると、その送迎バスが必ず目にはいるのです。
おまけに今日は学校で40点のテストを返して貰った処だったので、更に気分は憂鬱でした。
お父さんは酷い点を持って帰っても、それには誠に寛大なのですが、余りに寛大すぎて、却って「こんなんで自分、この先どうなるのやろぅか」と逆に不安を覚えたりもしたのです。
「なぁおとぅ、どうやったら頭よぅなれるのじゃ?天才と迄はいかんでも、せめて80点位取れる頭にはなっとかんと、この先真っ暗やからなぁ」
「ふぅん。天才とはいかん迄でも、かぁ。随分遠慮深いんやなぁ」
「遠慮深いて、何やねぇん?」
「ならば訊くが、己は天才言う言葉をどう思ぅ?言ぅてみ」
「何やの、それぇ?いきなり、何のこっちゃ?よう分らんわぁ。うち、そもそもそんな高望みしてへんしぃ」
「益々遠慮深いのぅ。えぇか、真之介。世に言う天才とは世界に抜きん出た才能の事や。しかし「天才」という語は「天賦の才」つまり天が「その人に賦与した才能」の略やと考えると、天賦の才は誰にでも備わっていると言えるやろぅ?大なり小なり、高低問わず、何かしら備わっとぅ言う意味では、平等や」
「ほんまかぁ?平等言ぅても、勉強やったらはっきり差があるやないの。わし、完ペケやでぇ」
「それはな、学校の勉強やら、金儲けやらの狭い畑にだけ限るから、その「向き不向き」で「出来不出来」ができるのや。せやけど世の中に畑なんぞ、他にも山程ある。それを見つけて、きちんとピンフォーカスすれば「自分の畑」やからこそ、誰しも己が最先頭で最高エキスパート。他の人は追い越せんし真似も出来ん」
「そんなん、あるの?そんな、出来る?」
「気づかん、だけや。というより探しもしてへん。探す前に大人に仕切られるし、子らもそれが既に仕分けや、と気づかんまま、皆が限られたπに殺到するから争いが起きる。バラけたらえぇだけの話や」
真之介君は「一理ある」とは思いましたが「で、その先何をすれば良いのか」さっぱり分りませんでした。
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