うとQ世話し return to home(town)

2020/10/21
(うとQ世話し return to home(town))
以下にお話する内容は、自分の経験に基づくイメージの話です。
正しいとは限りませんので、その点はご容赦下さいませ。
「自分は新たに生まれ変わりました」
というのは、実はあり得ない事だと思っています。
どんなにボロでもガタガタでも、身体を脱ぎ変える事はできませんし、アタマを挿げ替える事もできません。どんなにつぎはぎだらけであろうと、それを騙しだまし使っていくしかありません。
しかし、アタマそのものは挿げ替えられなくても、認識はいくらでも挿げ替えられます。
自分の場合、子供の頃は「大人しくて静かで引っ込み思案」
が、今は「途轍もなく御喋りで、曰く男のおばさんみたいでガチャガチャうるさい」とまで呼ばれる始末。
確かに「生まれ変わった」ようには見えますが、実際は何も変わっていませんでした。
どういう事?
と、もし人様から訊かれたら
「元が御喋りだっただけ。
それをべらべらつまんないこと喋らないの、とか、黙ってお行儀よくしていなさい、とか、口にするなら値千金の気の利いた事以外ダメ、とか言われたものですから、初めは窮屈に感じましたが、いつの間にか自分は、その「求められる人物像」路線をひた走るようになっておりました。
しかし、常々自分の何処かに違和感が残り、それが段々に高じて、突如崩壊が起こり、開き直ったら出てきたんです、元の地合いが。
どうでもいいような事をべらべら喋りまくる男のおばさん本性が、ひょいと」
いやぁ、楽になりました。スッキリしました。
恐らく「教育(周囲環境)という名の後天的な産物」である、作り物や被り物を脱ぎ捨てた事で、自分に最も適した「素の自分」に立ち返ったのだと思います。
これを現コロナ禍に当てはめてみると「自分は益々多くの豊かさを身に着けた存在である」という「産業革命以降の付加価値(上乗せ分)という名の作り物、被り物」(「」は自分の仮説です)を脱ぎ捨てて本来の素性(生き物としての人目人科)に立ち返った方が、案外楽しくなるような気もします。
端折って言うと「return to home(town)」という事かなぁと。
ひょっとすると、それがコロナ禍で失われた30%経済分で、それは存外正しいのかもしれません。そしてそれがニューノーマルの方向性のヒントなのかも。
以上はあくまでも私見に基づくイメージのお話でございました。

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