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異なる社会は異なる見方を教えてくれる。マレーシアでの滞在の日々

「私を変えたあの時、あの場所」

~ Vol.55 マレーシア ジョホール州 プルパッ村

東京大学の先生方から海外経験談をお聞きし、紹介する本コーナー。

今回は永田 淳嗣先生に、若手研究者時代、マレーシアに滞在された体験についてお伺いしました。取り上げた場所については こちら から。


「想定外」で研究対象となったマレーシア

――マレーシアを研究の場とされていますが、はじめてマレーシアに行かれたときのご体験について伺えればと思います。まず、マレーシアに渡航することになった経緯からお聞きできますか?

永田先生: 私は人文地理学を専門にしていて、学部から大学院までは沖縄の離島で産業と社会の変容を研究していましたが、かねてより海外をフィールドに研究をしたいと考えていました。カリブ海か西アフリカか、色々と研究の可能性を探っていましたが、ある先生から声をかけられ、想定外のマレーシアをフィールドにすることになりました。助手(現在の助教)在職時に、若手研究者に与えられる社会科学国際フェローシップ(新渡戸フェローシップ)を頂き、1994年~1996年にかけての丸2年間、マレーシアに滞在することになりました。


日本式とは異なる、社会の捉え方に気づいた

――マレーシアへは「想定外」だったのですね。滞在先ではどのように過ごされていたのでしょうか。

永田先生: マレーシア滞在中は、首都クアラルンプールにあるマラヤ大学地理学教室の客員研究員という身分を頂いていましたが、クアラルンプールに出かけるのは必要な時だけ、マレー半島南部ジョホール州のマラッカ海峡沿岸低地の資源利用と社会変容を研究するため、バトゥ・パハッという町からほど近いプルパッという村を本拠としていました。村では、在地の有力者の家の離れの一室を借りて暮らしました。

滞在した地域は、かつては広大な湿地が広がっていましたが、19世紀末~20世紀初頭にかけて現在のインドネシアの東ジャワからの移民を中心に農園開発が進み、1970年代頃までココナツの一大産地として栄えた場所でした。しかし私が滞在した1990年代半ばには、一部はアブラヤシ農園に変わっていたものの、ココヤシの木は倒伏し、雑木が生い茂り、野鳥の楽園と化している土地が随所に見られました。これは日本的な文脈でいえば「農業後継者不足による耕作放棄地の拡大」に他なりません。しかし調査をしていて見えてきたのは、このことを村の人たちが、地域や個人の問題や課題としてほとんど意識していないという事実でした。特にジャワにルーツを持つ人々を含むマレー系の人々は、相続の際に農地を子供たちに細かく分割してしまい、農業経営を家業として継承するという考えがありません。子供たちが何を基盤に生活を築くかはそれぞれの判断で、それが農業である必然性は何もないというのです。

プルパッ村の、管理の行き届かなくなった農園


――日本的な目で見れば「問題や課題」とされることが、マレーシアのその村では違って見なされていたということですね。詳しくお聞かせください。

永田先生: マレーシアは1980年代~1990年代に工業発展により著しい経済成長を遂げました。加えて政府が、農民が多かったマレー系の人々の子弟の、大学進学や工業部門・公共部門への就業を優遇する政策をとったことから、農村部における若者の農業離れが急速に進みました。しかしなぜか、日本の農村部で時として感じられるような「農業の担い手不足」といった重苦しさが全く感じられません。多くの親御さんが、職業は何であれ子供たちが安定した生活を築いてくれることが一番と考えているようでした。また日系企業の職場の研修などで日本に行ったことがあるという複数の方から、日本は工業国だと思っていたのに、成田空港から東京へ向かう車窓に広々とした農地が広がっているのに驚いたという話を聞きました。工業国ともなれば農地が野生に帰るのは自然のことと考えているようでした。

同じような現象を前にしても、一方で自明のごとく問題や課題とされることが、他方では必ずしもそうではない。もちろんマレーシアと日本では、農業という産業の社会の中での位置付けや、土地に対する人々の考え方に違いがあるでしょう。しかし幾分閉塞感の漂う日本の農業や農村の状況を考える上でも、マレーシアのあり方を参照することは、固定観念のようになっている部分を解きほぐし、将来の方向性を探る上でのヒントを与えてくれるように感じました。


喜び、悲しみ、不安…深いところで人は共通している

――閉塞感がある事柄だと思われていたことであっても、実は別の捉え方によって新たな可能性を見出せるかもしれないのですね。
他にも、マレーシア滞在中、印象的だった出来事など教えてください。

永田先生: 村で私に住む場所を与えてくれた主人は、インドネシア・東ジャワからの移民2世のムスリムで、2人の妻との間に15人の子をもうけていました。自身の父親も2人の妻との間に19人の子があり、近在にはたくさんの親族が住んでいました。私はこの大家族の一員として受け入れていただいたわけですが、クアラルンプールとの間の行き来などのためにマレーシアの国産車を1台持っていたこともあって、断食明けの大祭や結婚式など大家族のあらゆる行事や遠方の親族訪問に動員されました。

村での日々の暮らしの中でも、毎日定時に自分の部屋に戻って礼拝を行う妻の姿を見かけたり、1カ月に及ぶ断食をともにしたりと、私にとっては新鮮な経験がいくつもありました。しかし時がたち、この大家族との関わりも深くなるにつれ、会話の話題の中身は、主人への愚痴、結婚・離婚、子供の出来・不出来、孫世代の男女交際といったことが多くなり、シリアスさも増していきました。不思議なことに、目の前の彼ら・彼女らがマレーシアのムスリムであるというような意識が次第に薄れていったのです。人が何に喜び、悲しみ、また何を気にかけ、不安になったり自信を持ったりするのかといったことは、あまり変わらないのだなと感じるようになりました。

村の結婚式を祝う太鼓隊


「自明であること」から距離を置き、物事を見つめ直せた

――なるほど、仲が深まるにつれて、所属を超えた人間同士の付き合いになっていったのですね。
そうした海外経験が帰国後も活きているなと感じる場面がありましたら教えてください。

永田先生: 1つの社会の中にいてその社会だけ見ていると、知らず知らずのうちにその社会が共有する暗黙の前提のようなものに思考がとらわれていくものです。海外での体験は、時にそうした思考を相対化し解体する効果を持つものだと思います。私の場合も、マレーシアでの体験は、その後の私の研究において、日本やマレーシア、インドネシアの社会の変容を考える上で、それぞれの社会、あるいは先行研究で、自明とされていることから少し距離を置き、相対化する姿勢につながっています。そうしたスタンスは、研究のみならず、身近な社会の事象を見る上でも活かされていると感じます。ここでもう1つ私がマレーシアの体験から学んだこととして強調しておきたいことは、人の行動や思考を虚心坦懐に眺めてみると、その根のところで案外に変わらない部分もあるということです。海外の経験は、ある程度普遍的な人の望みをかなえたり困難に立ち向かう時の、様々な可能性を教えてくれます。


目指しているところは同じ、だけど違った向き合い方もある

――他の社会のあり方を見ると、相対的に物事を見つめることができるのですね。違う文化圏の人であっても根っこのところは変わらないというのも、印象的なお話です。
最後になりますが、これから留学や国際交流をしたいと思っている学生に向けて、メッセージをお願いいたします。

永田先生: 留学や国際交流体験は、まさに異文化の体験です。ですから最初はどうしても、日本とは異なるその異文化の社会や価値観をしっかり学んで、自分も適応しようと身構えてしまうかもしれません。それは致し方ないことですが、少し余裕が出てきたら、留学先・体験先の社会の人々の行動や思考を、色眼鏡をかけずに眺めてみてください。そして案外自分たちと目指しているところは同じだけど、ずいぶんと違う向き合い方もあるのだなといったことを、ぜひ感じてきてもらいたいと思います。

――ありがとうございました!


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