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Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

 随想とはどう書き始めるべきなのか私には分からないので、とりあえず嫌いな色を紹介したい。なぜ紹介するのが好きな色でないのかはさておき、私の嫌いな色は紫だ。理由は特にない。ただ、私の認識する紫を他人も同じように認識しているかは分からない。誰かにとっては私の認識する紫が赤に見えるだろうし、ひょっとしたら肌色に見える人もいるかもしれない。今から私が書く文章も人によって捉え方が違うはずだ。昔から文字言語は誤解を招きやすいと言われてきた。しかし、私は誤解を恐れず書きたい。

 小学生の時、母親と屋久島へ旅行に行った。屋久島といえば、屋久杉。狭義には屋久島に自生する樹齢1000年以上のスギを屋久杉という。「厄過ぎ」とも言われる縁起物だ。そんな屋久杉が数多くそそり立つ「ヤクスギランド」と呼ばれるハイキングコースを私たちは散策した。身長が低くヒョロヒョロの私は周りを囲む巨木に圧倒されながら歩く。上を見れば屋久杉、下を見ればモサッとした苔。どこかから聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえてくる。横を見渡せば、”緑”。緑といってもたくさんの種類の緑だ。
 歩いていくうちに、私は1本の倒木を見つけた。直径は2mを超えている。おそらく2000年もの間、時代の成り行きを見守ってきたのだろう。もう既に苔を体全体に纏っていた。しばらく見ていると、倒木から1本の小さな芽が生えていることに気が付いた。日光に照らされ胸を張って立つ芽。視界にあるどんな緑よりも若い緑。ひょいと摘んで放置すればすぐ死にそうな芽。死にゆく倒木なんか知らんぷりして養分を吸い取る芽。
 自然界では、死から生が誕生する。というか、生と死が絡み合っている。カマキリのメスは交尾後にオスを食い殺すことがある。その養分を用いてメスは通常の2倍の量の卵を産むことができる。アオムシコバチはモンシロチョウの卵や幼虫、食草に卵を産み付ける。しばらくするとアオムシコバチの幼虫はモンシロチョウの幼虫の体を突き破って外に出てくる。飼っていたモンシロチョウの幼虫から何かウネウネしたものが大量に出てきていて、当のモンシロチョウの幼虫は変色して縮んでいたのを発見した時のトラウマは今でも残っている。人間も例外ではない。日々古い細胞は死に、新しい細胞が生まれている。そして私も、母親から養分を吸い取りながら生きてきた、まるで倒木から生える芽のように。
 私はさらに歩く。少し開けた場所に到着し、そこで座ってくつろぐヤクシカを発見した。ヤクシカはニホンジカの亜種だが、屋久島には天敵が少ないため小型化した。このヤクシカは人に慣れているようだった。私は身をかがめながらヤクシカに接近しその体を触る。意外と毛は硬い。私は体を撫でながらヤクシカの目を覗き込む。真っ黒な目。純粋な黒。私はヤクシカの目に映る自分自身の姿を眺めた。しばらく眺めていると、私はヤクシカの目に吸い込まれるような感覚を覚えた。鳴く鳥の声や風で擦れる葉の音が先程よりも大きく聞こえる。屋久杉や苔が私に突進してくる。私は怖くなってヤクシカから目を逸らした。

 私は中学生になり思春期に突入し、自分の意識と外界とが隔てられているように感じるようになった。具体的に言えば、私の意識が殻である身体、特に目を通して外を覗いていることをしっかりと認識するようになった。中学二年生の終わり頃から反抗期に入った。私の反抗期はかなり酷かった。毎日のように母親と口喧嘩をした。そしていつも通り喧嘩していた高校一年生の時のある日のこと、私は母親に「あんたは社会に出たら使えない」と言われた。社会。普段から社会という言葉はよく使うけれど、その正体はよく分からなかった。その翌朝、私は学校へ行くために駅へと向かった。大勢の人が列を成して歩いていく。脇目も振らずスマホをいじりながらズンズン歩き続ける男性を目撃した。いつも通りの電車に乗り込む。その日は珍しく満員電車だった。一人の男性の肩が女性の肩に当たり、男性は女性に謝った。女性は笑顔でいえいえ大丈夫ですよと男性に言ったが、その後ずっと男性の顔を睨みつけていた。座席に目を向けると、全員スマホをいじっている。イヤホンを付けて自らの世界に没入している。社会。これが母親の言っていた「社会」で、自分は将来こんな社会からも「お前は使えない」と言われるのかと思うと絶望した。
 高校二年生になってコロナウイルスが流行し休校になった。その期間私はネットの世界にどっぷりと浸かった。ネットに蔓延る誹謗中傷や煽り、差別発言、テレビで放送される不祥事などを見てさらに自分の殻を強固なものにし、社会との隔たりをよりいっそう感じるようになった。なぜ、自分はこれほどにも社会に対して隔たりを感じなければならないのか考えたが結論は出ず、殻の中でそれまでの自分の人生を振り返るうちに私はいつの間にか父親を恨むようになっていた。
 私の父親は私が幼稚園生の時、母親に暴力を振るった。私と母親は逃げた。母親が身代わりになり私は暴力を受けなかった。母親は私が犯罪者の息子にならないようにするために父親を訴えなかった。父親が母親に暴力を振るったせいで私は今こんなにも苦しんでいて、母親も辛い思いをしたのだと、殻の中で、自分の普段の言動は棚に上げ、ただ漠然と父親を憎んだ。父親への恨みはどんどん太っていった。
 ある休日、いつも通り母親と喧嘩していた時、母親は私に「父親に似てきたね」と言った。ゾッとした。あれだけ憎んでいた父親に、今まさに自分がなろうとしている。いつか誰かに暴力を振るってしまうかもしれない。そして、母親は、かつて自らに暴力を振るってきた父親と同じような人間を、父親を、再び自らの手で再生産しようとしている。残酷。その時初めて、今まで自分が母親に対して何をしてきたか自覚した。その夜、母親と私はリビングにいた。母親はWiiで「街へ行こうよ どうぶつの森」をプレイしていた。私も小学生の時にプレイしていたが、ここ数年はプレイしていなかった。ひどく母親の背中が小さく見えた。母親は現実での生活を諦めて、どうぶつの森の中で理想の生活を追い求めているのかもしれないな、などと考えて、申し訳なくなって、早めに床に入ったその日の夜、私は泣いた。後悔。生まれてきたことに対する後悔。私が生まれてきたのは罪だと思った。あの時の記憶はあまりない。だが死のうとだけは全く思わなかった。もし死んだら父親に屈することになるし、何より残された母親のことを考えると心が痛んだからだ。生まれてきたことが罪ならば、これからも生き続けることが罰で、私は生きようと思った。
 この出来事以来、確実に私の中で何かが変わった。父親への恨みは消えたが、父親のような人間にはならないようにしようという思いはあった。父親が高校生の時、東大を受けて落ち、それをずっと親のせいにしていたという話を聞き、私も東大を受けようと決意した。意識を変えただけで校内順位が今までの半分になった。この時点で高校三年生になろうとしていた。
 高校三年生になってからは平日休日問わず毎日学校へ来て部活や勉強にいそしんだ。塾に行っていない仲間が大半で、休日も学校には誰かしらいたので心強かった。夏休みに入ると流石に勉強に飽きてきたので、勉強の合間に学校のトイレ掃除をするようになった。トイレ掃除を行うことで自分までも浄化されたような気になることができ心地よかった。模試は当然の如くE判定だったが全く気にしなかった。秋になって、友人が東大を単願で受けると言っていたので私も単願で受けると決意した。そもそも東大以外行くつもりはなかったし、仲間がいるなら単願でもその重圧に耐えられるだろうと思ったのだ。とは言え、やはりずっとガリガリ勉強するのは精神的に苦痛だったので、私は人間的に生き、人間的に成長することを一つの目標に据えた。毎日21時半ごろまでには寝て6時半ごろに起きる。よく笑って卑屈にならないようにする。実際、受験期で自分はかなり変わった気がする。
 直前期になるともはやトイレ掃除のために学校へ行くようになった。ワレトイレソウジスル、ユエニワレアリ。こんな馬鹿げたことを考えつつ、卒業間近の仲間たちとももうすぐ会えなくなるのかと若干の淋しさを感じながら勉強とトイレ掃除の両立を図った。受験数日前になると自分はもうすぐで赦されるのだなと思い始めた。誰に、何を赦されるのか。自分でも分からなかった。また、駒場で楽しそうに歩く自分の姿を明確にイメージできるようになっていた。そして、受験を終えた。受験日以降は腑抜けたかのように過ごした。特に何かしようという気にはならなかった。自分が予備校に通う未来が想像できなくて、私は受かるか死ぬかのどっちかなのだろうなと思った。
  3月10日、合格発表の日がやってくる。あまり緊張はしなかった。どっちに転んでもその結果を受け入れる準備はできていた。結果、合格。母親は声が上ずっていて今にも泣きそうだった。私も泣きそうだったが、堪えた。私の憎き頑固さがここであらわになってしまった。合格発表後、少し元気を取り戻した私は、親戚に合格祝いという形でケーキ屋さんで面会する。親戚は口々にすごいねと褒めてくれて私は有頂天になっていたが、ある親戚の一言が私を殴った。

あなた、父親にそっくりじゃない。よく似てるわ。

まさか再びこの言葉をこんなところで聞くとは思っていなかった。私は自分の笑顔が少し引き攣っていることに気が付いた。やはり遺伝は避けられないのかと思った。しかし、以前と違って穏やかな気持ちにもなった。その数日後、父親から母親に合格祝いのメールが送られ、そこには一言、おめでとうとだけ書かれていた。これらは私への、油断はするなというメッセージなのではないかと思っている。
 今になって過去の自分を思い返してみると、私は自分で勝手に父親のイメージを作り上げ、勝手にそれを憎んでいただけだった。もちろん過去の自分を否定するつもりはない。実際のところ、私は父親の顔も名前も覚えていないのだ。私は過去の父親の暴力などの「事実」を知り、それが父親の全てだと思い込んでいた。事実は分かっても真実は分からない。父親を憎んでいたあの時、私は母親に言われた通り、父親そっくりだった。自分の中には大きな傲慢さが居座り続けている。父親を勝手に悪だと決めつけた傲慢さ。受かった後、自分は父親のような人間にはならなくて済むのだと、一瞬でも思ってしまった傲慢さ。そして今も、自分はやはり傲慢だと気が付くことができて少し安心している自分がいるのだ。自分はこれからも、自分の中にある傲慢さと対峙して生きていかなければならない。

 以上で私の合格体験記はおしまい。高校の合格体験記を出し損ねたのでここに書かせていただいた。心の中のモヤモヤにうまく形を与えられた気がする。実のところ、書く直前になって書く気がどんどん失せていった。自分のイメージが歪んで、みんなの私に対する接し方が変わってしまうのではないかと不安になっていた。高校同期にあいつはあんなに抱え込んでいたのかなどと思われても困る。私のことを知らない人からすれば私は、大学に合格してもなお受験のことを話すイタい奴かもしれないし、逆転合格アピールとか、境遇は悪かったけど自分の努力で這い上がりましたアピール、可哀想な奴アピールにも見えるかもしれない。しかし私は、受験期含め今までの人生、幸せでしかなかった。自分に言い聞かせているわけでもなく、他人に対する弁解でもなく、綺麗事でもなく。いつでも仲間に恵まれていて、母親も教育に理解のある人だ。ここまで恵まれていることに感謝しなければならない。決して可哀想な奴ではないし、周りから可哀想な奴だとか、苦しんできた人、裏のある人呼ばわりをされるのは嫌である。普段の私の姿、これは嘘偽りも無く私自身だ、そして今少し重いことを書く私の姿も、嘘偽りない私自身だ。そこに表裏の区別はない。だから私を知っている人たちは、普段と同じように私に接して欲しいのだ。自意識過剰だろうか。

 今の自分はあのヤクシカの目に映るだろうかと考えることが時々ある。そして多分無理だろうなと思う。あれほど自然を身体全体で受け止めていたあの頃には戻れない。ただ、それが別に嘆くことでもないことも分かっている。
 私の中学・高校時代。甘いようでいて、思い切り吸うと吐きそうになる思い出。荒川のそばを歩いていると、時々甘い香りが漂ってくる。何だろうと思って川の方へ歩いて行くと岸に打ち上がって腐敗したボラが見え、この甘いと思っていた香りは吐き気を催す匂いに変化する。私は慌ててその場を離れ、土手に登り、その時ちょうど風が吹いてくる。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
風立ちぬ、いざ生きめやも。




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