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【ショートショート】 台風と私とあなた

 どうやら台風が来るらしい。しかもめちゃくちゃでかいやつ。
不謹慎ながら私はちょっと期待感を抱いた。
 台風が埼玉にいよいよ近づいてきたその日は朝からとても変な天気だった。
日光が部屋の中にさーっと入ってきて、空中に浮かぶほこりがきらきら輝きはじめたかと思うと、太陽はすぐに雲に隠れて部屋の中は暗くなってしまう。
なんだか暗くなったとか思ってるうちに、たちまち太陽は自信を取り戻したように雲というベールをひっぺがして輝きだし、再び宙に浮かぶほこりは踊りはじめる。
でもそれも長くは続かなくて、結局昼前には雨が降りはじめ、やがて土砂降りとなった。
私はテレビをつけてみたけれど雨音のせいで何も聞こえなかった。
よくわからないチャンネルの誰だかよくわからないアナウンサーが、よくわからないことを誰だかよくわからない専門家らしき人に口パクでしゃべっていた。
いや、これは本当に雨音のせいだろうか?
そのとき私は何の情報も頭に入れたくなかったし、情報を頭に入れる余裕もないほどに混乱していた。
やがてテレビを消し、しばらくじっと雨音に耳を澄ましていたけれど特に何も感じられなかった。
飽きてしまったのでとりあえずシャワーを浴び、新しいパジャマを着て、長くてなかなか乾かない髪の毛に腹を立てながらも何とか乾かし、いつか彼が買ってくれた大きなテディベアに抱きつきながらベッドの上で寝た。

 起きたらもう夜の8時だった。
雨は止んだらしく、妙な静けさがあたりを包んでいた。
スマホで今どこに台風がいるのか調べてみたが、まだ埼玉を通過してはおらず、フォッサマグナの西の端っこの方でノコノコ歩いているようだった。
私はパジャマからTシャツ短パンに着替えて外に出て、家の前の自販機で缶入りの炭酸飲料を買ってから土手へと歩きはじめた。
 台風が今にも来ようとしているときや、通過したすぐあとの空気が好きだ。
何となく甘ったるくぬるい空気があたりを包み込み、それはいつか彼と行った夏の夜の沖縄の国際通りの空気感を思い出させる。
今回もそんな空気感があたりに漂っていたけれど、夏も終わりに近いためか少し冷たい空気が混じっていた。
あと数ヶ月で来る冬。
今年の冬は越せるかどうか怪しい。
 缶を開けてサイダーを口に流し込む。
甘い。しかし甘すぎる。
こういうサイダーはもっと若い人たちが夏の盛りに飲むべきものなのかもなと思った。
そのサイダーは飲み物としての賞味期限が過ぎているわけではなかったが、ある意味では賞味期限が過ぎていた。

 やがて土手の下に着き、異変に気がついた。
家を出てすぐは気がつかなかったが、とんでもなく強い風が土手の上の方で吹いているらしく、上の方に植わっている桜の木の枝が鞭打つように暴れていて今にも折れそうだった。
私は来年桜の花を見られるだろうかと悶々としながら階段を上り、土手の上へ到着した。
 案の定強い風だった。
立っていられないほどの風が吹きつけ、私はよろめきながらも、たった今上ってきた階段の手すりにつかまって耐えた。
そんな中でも荒川を挟んで対岸に見える東京の街並みは不動で、恐怖感を抱いた。
東京の街並みの上空には分厚い雲が覆いかぶさり、不動のマンション群から発せられる強い光が雲を下から照らしていた。
上を見上げると雲が今まで見たことないような速さで私の前から後ろへと通り過ぎていき、雲の向こうに少しだけ星が見えた。
台風はもうそこまで来ている、と思った。
 そうだ、私は今まさに嵐と対峙している。
どうせなら私なんか吹き飛ばしてどこか南国の小さな島へと連れていってくれないかな。
人もほとんどいないような小さな島で、何の人間関係にも悩むことなく、ただゆったりと過ごしてみたい。
でもそれはどこまで行っても逃げでしかないし、負けず嫌いの私は自分を許さなかった。
 強風が私の顔に吹きつけ、私は風圧で息ができなくなって思わず顔を背けた。
でも風は私を離そうとせず、横を向いた私の顔にも容赦なくまとわりついた。
「恥ずかしがらないでよ、僕の方を見てよ」
まるであの日の彼が私に言ったみたいに。
涙が出てきて、水面を移動する泡のように空気中へと吹き飛ばされていった。
強風で髪が、前髪を含めて全て後ろへと持っていかれた。
髪は長い方が好きとあなたが言ったから伸ばした髪。
今ではなかなか乾かないただの厄介者に成り果てた髪。
でも、それでもどうしても切ることのできない髪。
私と彼との間の愛は、まるで中心部分に風が吹き寄せる台風のように、ぐるぐる回りながらどんどん凝縮していくように感じられた。
でもその愛は簡単に崩れてしまった、まるで上陸してすぐ力が抜けて熱帯低気圧に変わってしまう台風みたいに。
今までの私の人生では数多くの台風がやってきては消え、そのたびに私の心はズタボロになった。
しかしその中でも、今回の台風は最大のものだったし、その分私の心はかつてないほどの被害を受けた。
私はもう若くない、だからそろそろ結婚も視野に入れて付き合おうと思い、かつてないほどの気合いに満ち溢れていたし、彼との仲も良かったから、まさかこんな簡単に崩れてしまうなんて思ってなかった。

 私は相変わらず息苦しかったけど、前を向いた。
そして目を閉じて心を落ち着かせようとした。
すると、髪が、風によって後ろに吹き流されているのではなく、誰かによって後ろへと優しく引っ張られているように感じられた。
「行くな、だめだ」と。
彼の声ではなかった。見知らぬ誰かの声だった。
私は後ろを振り向いたが誰もいなかった。
落胆すると同時に、後ろを向いてみて初めて、あることに気がついた。

逆風は、振り返れば追い風になる。

そうだ、今まで数百万年にわたって生きてきた人間だって、台風で何回も何回もズタボロになりながらも、その度に再生して、むしろさらに強くなってきたんだ。
今までの私だって何度も何度も心がズタボロになりながらも前を向いてきたんだ。今回の台風は私の心を今まで以上に深く抉ったけど、ここで止まっちゃいけない。
私はもう若くない。
でも、まだ大丈夫。

 私は追い風に支えられながら階段を降り歩き出した。
新たな未来へと、そして私を待ってくれている未来のあなたのもとへと。



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